悩ましいことがあるのが人生かもしれない。
けれど、その解決には他人の答えではなく、結局は自分の内側に分け入り、思索する時間が不可欠ではないか──そんなふうに私は考えている。目の前の問題を、より上位の視点に置き直し、抽象度を上げ、必要であれば形而上学的な俎上にまで載せてみる。そうした思考の習慣は、振り返れば、若い頃に自然と身についたものだった。
十代半ばの私は、興味の向くままにあらゆる分野へ首を突っ込み、考え、試し、そしてまた疑問に戻ってくる日々を送っていた。
形而上学という言葉も、父から聞いていたおかげで幼い頃から馴染みがあった。西洋哲学だけでなく、ウパニシャッドなどインド哲学の話、さらには志那学にいたるまで、父との会話は世界を縦横に渡る航海のようでもあった。
目の前の理不尽に向き合うとき、私はいつの間にか「どうして? それは、どうして?」と自分に問い続ける癖を持つようになっていた。その思考法は、必然的に形而上的な方向へ導かれる。問い続けるほどに自分が見えてきて、すると不思議なことに、見えていなかった問題がまた増える。
そうした迷いの中で、私が心を寄せたのが**ダンテの『神曲』**だった。
寿岳文章訳の『神曲』を、私は学内の図書館で何度も手に取り、休み時間のたびに読み進めた。理解できない箇所が多く、冒頭の地獄篇は陰鬱ですらある。それでも、なぜか読み続けずにはいられなかった。長大な物語は地獄篇から始まり、煉獄篇、そして天国篇へと向かう。
当時出版されたばかりの寿岳文章訳。その響きは、十四世紀から届く声を、現代に新しく息づかせるものだった。
後になって、『神曲』がどれほど多くの芸術家に影響を与えてきたのかを知った。ミケランジェロ、ロダン、ダリ、チャイコフスキー、リスト、プッチーニ、ゲーテ、漱石、大江健三郎、中原中也、宮崎駿、永井豪……。
それらの名を眺めると、彼らもまた、自身の内側の迷宮を歩くために、この書をひもといたのだろうと思う。
十代半ばは、私にとって“哲学書の乱読時代”でもあった。
その中で『神曲』だけは、まるで帰る場所のように繰り返しページを開いた。
そしてもう一つ特筆すべきは、人生でその時期に限って、私は熱心にポップスを聴いていたことだ。しかも当時の私が好んだのは、イタリアやフランスのポップスばかり。いま思えば、『神曲』と地続きの世界観を持つ文化に、無意識のうちに惹かれていたのかもしれないし、精神世界の重さとバランスを取るためだったのかもしれない。
悩みは尽きない。
しかし、悩みを抱いたその瞬間こそ、私たちは自分の世界を抽象度の高い次元へ押し広げるチャンスを与えられている。若い日々に培った思索の習慣は、いまもなお、私の支えとなっている。
2025年11月27日
2023年05月12日
私は、リヨンにいるかもしれない
リヨンが近い。TGVを下りなければと思い、席を立つと、足がもつれた。慌てて、列車の手すりを持ち、ほどなく到着した駅のプラットホームに降り立った。そこは、とりあえず向かおうかと思っていたマルシェなどない、いつもの日本の地方都市の駅であった。
私は、列車内でTGVのビジネスクラスクラスの車内の、そしてそこからの車窓を、スマートフォンの動画で見ていた。そして、今、明らかに日本にいる。フランスの列車、駅、風景と日本のそれらと異なるが、いずれもがここ、といういくばくかの昔の自分の目の前に確かにあった。私らしきものは、いずれにもいて、おぼろげだ。いずれかが意識に上るだけなのだ。
2021年01月30日
良い質問には回答が含まれている
良い質問に出会うこともあるけれど、そうではない質問に出会うことも多いものです。良い質問は、目的がはっきりしていて、その中に回答が含まれています。
良い例の一つ。「先日、墓参りに行ってきたけれど、それから頭痛がしているのです。何かしなければなりませんか」
「墓参り」「頭痛」「すること」は、無関係に見えますが、良い質問です。質問に回答が含まれているのです。頭痛を解決したいという目的が見えていて、頭痛の原因が墓参りに関係があるのではないかと、自分で気になっている。そして、その解決を自分がしようとしている、ということです。
ときどき聞かれる「幽霊が見えるのですか」は、単純に見えますが、よくない質問です。良くない理由は、何が目的か分からないので、どう答えたら良いのか分からないのです。見えるといえば見えるし、見えないといえば見えないし、その答えを質問者はどうするのか?ということなのです。
「夜中に人の気配を感じることがあるので、それをどうにかしたい」とか、「見え方を知って、事業に役立てたい」という目的が分かれば、答えようがあります。
良い質問には回答が含まれているので、すでに回答を自分が知っているのです。悪い質問には、回答がないか、相手に聞かなくても、少し調べればだれでもがたどり着けます。
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2020年08月07日
大人になって分かること---タイムマシンでどこに行くのか
タイムマシンで過去や未来に行くというのは、想像力たくましい人類の発明だろう。飼っているが犬が30年前を見てきたよ、とか、樹でミーンミーンと鳴いている蝉が100年後を見にいきたいと思っていることはなさそうだ。彼らは、過去や未来に思いを馳せたりせず、今を精一杯に生きているように思える。
タイムマシンでの行き先は、過去や未来だ。私が子供のころ、タイムマシンで気になったのは、過去や未来のある時ではなく、どこに降り立つのかということだった。自分の思う「ここ」、あるいは「そこ」に、自分がそのままに降り立つことができるのかが問題になってしまった。3つの疑問が生じた。
一つは、今いる地球上のどこかから、未来の同じ場所に到達するということはどういうことか。今の自宅が100年後に工場だったら、工場に降り立つのか。その場所が隆起したり、土盛りをして、同じ位置が地中になっていたら、自分は、土の中に現れるのか。
2つ目は、地球は自転し、公転もしていて、太陽系全体が銀河系の中で移動している。銀河系も、同じ位置だと言えない。そうすると、あるとき「ここ」だと思ったそこは、100年後には宇宙空間のある場所だ。星などないところの可能性が高い。「ここ」に自分が100年後にあらわれるのは、宇宙空間に放り出されるということだ。それ以前に宇宙空間中のある位置は、特定できるのかという疑問もある。全体が推移している中では、ある位置は、そのままある位置だということにもなるのか。
3つ目は、時間を移動する自分は、何か。自分は、その肉体なのか。肉体の臓器は自分か。食事中の口の中の食べ物、手にした手帳、身につけた服装は、未来にあるのかどうか。肉体だけだと、裸で降り立たなければならない。他方で、降り立つ場所には、その直前まで、何かがあっただろう。そこに降り立つ自分とそこにあったものは、どのようにあるのか。そこにあったものが、交代するのか、消え去るのか。消え去るとすれば、どのように消えるのか。そこにあるものを自分が共有するというのか。そこに椅子があるならば、椅子と自分が合体したものとなるというのか。
タイムマシンは、子供に大きな問題を投げかけた。「いつ」を問うているように見えながら、「どこ」であり、自分が「なに」かを問うことになった。もちろん、大人になった自分が見返せば、見えてくることがある。「いつ」は「どこ」であって、自分は、思考しているもので、そこの全体を含んでいると。
2019年01月29日
世界中の人たちに知ってほしい大切なこと
この宇宙のすべてが愛の法則に依るただひとつのものです。それが真理です。
世界中の人たちが、それを感覚的に捕らえることができるようになるに違いありません。一人一人が愛に包まれ、だれもがすべてにつながっていることを実感することでしょう。人間の成長は、宇宙の推移の当然です。一人一人がより高次の気配を受取りながら、周囲に託していく流れによって宇宙のダイナミズムは成っているのです。


