タイムマシンで過去や未来に行くというのは、想像力たくましい人類の発明だろう。飼っているが犬が30年前を見てきたよ、とか、樹でミーンミーンと鳴いている蝉が100年後を見にいきたいと思っていることはなさそうだ。彼らは、過去や未来に思いを馳せたりせず、今を精一杯に生きているように思える。
タイムマシンでの行き先は、過去や未来だ。私が子供のころ、タイムマシンで気になったのは、過去や未来のある時ではなく、どこに降り立つのかということだった。自分の思う「ここ」、あるいは「そこ」に、自分がそのままに降り立つことができるのかが問題になってしまった。3つの疑問が生じた。
一つは、今いる地球上のどこかから、未来の同じ場所に到達するということはどういうことか。今の自宅が100年後に工場だったら、工場に降り立つのか。その場所が隆起したり、土盛りをして、同じ位置が地中になっていたら、自分は、土の中に現れるのか。
2つ目は、地球は自転し、公転もしていて、太陽系全体が銀河系の中で移動している。銀河系も、同じ位置だと言えない。そうすると、あるとき「ここ」だと思ったそこは、100年後には宇宙空間のある場所だ。星などないところの可能性が高い。「ここ」に自分が100年後にあらわれるのは、宇宙空間に放り出されるということだ。それ以前に宇宙空間中のある位置は、特定できるのかという疑問もある。全体が推移している中では、ある位置は、そのままある位置だということにもなるのか。
3つ目は、時間を移動する自分は、何か。自分は、その肉体なのか。肉体の臓器は自分か。食事中の口の中の食べ物、手にした手帳、身につけた服装は、未来にあるのかどうか。肉体だけだと、裸で降り立たなければならない。他方で、降り立つ場所には、その直前まで、何かがあっただろう。そこに降り立つ自分とそこにあったものは、どのようにあるのか。そこにあったものが、交代するのか、消え去るのか。消え去るとすれば、どのように消えるのか。そこにあるものを自分が共有するというのか。そこに椅子があるならば、椅子と自分が合体したものとなるというのか。
タイムマシンは、子供に大きな問題を投げかけた。「いつ」を問うているように見えながら、「どこ」であり、自分が「なに」かを問うことになった。もちろん、大人になった自分が見返せば、見えてくることがある。「いつ」は「どこ」であって、自分は、思考しているもので、そこの全体を含んでいると。