新型コロナ騒動が終息したら、これまでと同じようになる、ということはありません。私たちは、新型コロナ騒動を経験したからです。この騒動の中で、私たちは大きな学びを得ました。
世界中が、人の移動を止めることに腐心しています。もちろん、経済的には大きな痛手のはずです。外出自粛が経済にもたらした損害を量ろうとする試みは、無駄なことです。これまでの推移から算定される損害でしかないからです。
がんばって、ということは、ほんとうは、イヤなのだけど、仕事をして、稼ぎ、そのお金で、あれやこれやしたいことを叶えてきた状態に戻るわけではないのです。自粛といって、部屋でごろごろしながら、気づくことに注目してみるのです。自分は、仕事が好きだったのだと、あらために気づく人もいるでしょう。仕事をするのがイヤだったと気づく人もいるでしょう。ごろごろしているのも、いいものだと気づく人もいるでしょう。
これまでに社会に用意したインフラを活用できない自粛期間は、無駄なように見えます。しかし、強制的に引きこもらされて、復帰しようとしたときに、一つの職業に専心的に邁進し、多くの人に喜んでもらい、自分の社会的価値を上げ、大きく稼ごうということが、唯一無二の価値ではないことに気づいてしまうのです。
月曜日から金曜日まで、午前9時から午後5時まで仕事をするものだ、それで家族を養わなければならない、楽しみごともしたい。そのためにより良い学校を出て、より良い就職をしなければならない、という社会的な常識が外れてしまうのです。
英文を勉強してきて、運良く外資系の貿易会社に入社しても、事務仕事は、1週間で2日間ぐらいだったらできるけれど、それ以上は、ストレスが大きくてできない、といえば、これまでの常識では、仕事ができない人ということになるのです。しかし、これからは、ストレスが大きくならないように1週間に2日間仕事をして、趣味の刺繍とケーキづくりをする時間を1週間の5日間あてることができるようになるのです。そうすれば、貿易会社の仕事も楽しめるし、それで自分の生活の全部に充てようという期待もしなくなります。
英会話教室や海外旅行の費用は無くなるけれど、刺繍とケーキづくりも仲間やファンがいるので、ばりばり仕事をして稼ぐというほどではなくても、なにがしかの糧となるのです。
仕事場などでの人間関係が、タイトではなくなるので、だれとも快適な関係にすることができます。一人でできないことがらが出てくると、いつでも仲間を呼び寄せチームで作業ができるようになります。序列として誰かが偉いということもなく、役割分担としての秩序があるだけです。その作業を終えれば、そのチームは解散です。情報を発信すれば、これまで気づいていなかったチームのメンバーになれそうな人が近隣にいることが分かるようになります。
だれもが、近隣で仲間を見つけることができる一方で、言語を超えて世界中にネットワークがアクセスできてしまうので、生産的活動も楽しみごとも、経済的、物理的、国家的フレームの制限がなくなってしまいます。
勉学に励むことも、多くの人にとって、卒業証書が必要ではないことが判明します。好きな勉強を好きなだけすれば良いし、気に入った先生の話を存分に聞けるようになることでしょう。
引きこもっていれば、人さまの邪魔もなく自分の楽しみごとに邁進できるので、価値ある生き方が、その方向に向かいます。もっともぜいたくな生き方は、何もせずに宇宙の機微に触れ、快感のうちに過ごすことです。思索に耽ること、あるいは、知識を得ようというのがそれに準じます。外に出て遊び回り、いろいろな豪華な物を見せびらかすことが、野暮であったり、反社会的なことと、およその共通理解になることでしょう。
そうした理解は、人類が、この時期に初めて達したのではないのです。歴史的には、むしろ、そうした時代の方がふつうだったかもしれません。
江戸時代の一般的な人たちは、仕事は、午前中だけです。午後は、仲間と、うだうだするのがふつうです。江戸の街の子供たちを育てるのも親が掛かりきりでするのではなく、近隣の人たちが協力しているのです。商家に丁稚奉公する子供たちは、その家の旦那の子供のおもりをしたりしますが、休みは、旧暦の1日、15日だけです。その日も、仕事場に、いったん店に出向き、少しばかり子守をしてから、でかけるのです。大量生産のできる社会的素養はあっても、基本的にリサイクル社会です。衣装、傘、あるいは糞尿も、廃棄せずに、回収し、リメイクし、利用し、また下着もレンタルがあったりするのです。お武家さんが、現実的にはあまり役にも立たない学問と武芸に励んだのは、人としての手本となるだけのためです。
奈良時代の役人も午前中が執務の時間です。午後には、自宅に戻ってきます。奈良の役人の屋敷には、畑の場所もあるので、野良仕事ができました。私たちが、口にする野菜のうちの青物は、栽培するものではなく、江戸時代まで、道端などにはえているものを採ってくるだけなのです。
およそストレスの大きくならない範囲で仕事をして、日々を暮らしていく一般的な生き方ばかりがすべてではありませ。自身の役目をまっとうするために、高い緊張と多くの時間を費やしている職務もあります。天皇陛下は、午前9時半に出勤します。多くの祭祀を行う一方で、年間で1200の閣議書類の署名を含め多くの書類に目を通し、年間200人と会見されています。
江戸幕府の征夷大将軍も、早朝から予定が決まっていて、それにしたがって日常を過ごします。周囲に心配をかけないために、生活のリズムに変化や体調の不良を見せないように努めています。朝鮮半島の王族も、早朝から、深夜まで、執務、勉強、あいさつの予定を日々こなすのです。
ピラミッドの建築には、膨大な労働力が必要です。現在の私たちの常識では、奴隷を使うか強制的に仕事をするようにするかでなければできないことだと思っています。しかし、実際には、遺跡を見れば、家族で暮らせる場所があり、治療を施していた様子から、むしろ、労働者からすると奉仕的、あるいは行政の行う農閑期の農民の救済事業なのです。
古代ギリシアは、高い文化を誇っています。哲学的、芸術的に高い水準にあり、自分たちで楽しんでいたのです。政治の形態も民主主義が具現できるように工夫が見られます。ですから、支配を拡張する覇権主義などと無関係なのです。
このように、外に向けて、力を発揮しなくても、豊かに暮らす方法があったのです。他国に向けて、他人に向けて、あれこれしようとすることが、これまでの常識に見えても、それが覆りつつあります。私たちが、心の赴くままに活動し、それが社会に貢献することになるので、私たちはいかされるという、当たり前が実現します。
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