2019年09月19日

神頼みをかなえるために

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人生では、病気や、他者とのトラブル、家族の問題など、多くの問題が生じます。「困った」「イヤだ」と思うことの一つ一つに、私たちの人生の学びの糧が含まれています。本来あるべき自分と異なる考え方や振る舞いをしていると、自分自身の心が悲鳴を上げるのです。つまり、問題だと見えるものが自分の目の前に立ちはだかったときには、自分の考え方や振る舞いを改める時期が来たことを示しているのです。

物理学には物理の法則があります。社会には社会のルールがあります。突然にでたらめなことが起きているのではなく、それまでにしてきたことの結果が、いま、現れているのです。いま、生じていることの原因が、どこかにあります。そのことに気づくか気づかないかで、人生を価値あるものにするかどうかが別れます。

自在に思いがかなうようになるには、自分の目の前の不都合なことの原因が、誰かのせいではなく、すべて、自分であったことに気づかなければなりません。イヤなこと、困ったことを人のせいや、社会のせいにしている間は、解決の方向と異なる方向に向かっているのです。そして、自分の力が削がれ続けることになります。

私たちは、自分の望んでいることを早くかなえたいと願います。実際に、神頼みが効くことがあるのです。神頼みをしてかなうのは、大きく分けると二通りあります。一つは、状況が整っていて、その合図がきたとき、神頼みをして、実際にかなうのです。もう一つは、原因の部分の改善を自分の幸福を犠牲にしてかなえることです。

前者は、問題の禊ぎがすんだときに、ふと気づくのです。かなっても当然の状態になって、かなってしまうのです。きっかけが必要だったのです。当然のことが生じるので幸福です。

後者は、宇宙の摂理に従って、その人の徳分を使うのです。自分の徳分を失うことで、願いをかなえるのです。ですから、目前の願いがかなうほどに、その人は不幸せになります。

そして、その中間があります。神頼みをしたときに、自分が抱えている誤りをただすことで、かなうのです。宗教の場で、祈る方々は、その場に神や行者がいて、立場が異なっても、同じように、自分の辛い思いを解消するために努めている人たちが周囲にいるので、自分を正していけるのです。
posted by ほうとく at 09:55| Comment(0) | ・幸福 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする