2018年09月26日
天明先生の講演会に出席しました
さすが、天明先生。年齢を感じさせない、ご講話でした。山盛りのネタを一気にお話になりました。復習をしているところです。先生のご著書を買い求めました。それもまたなかなかの内容でした。
2018年09月15日
ヨハネの福音書の成立
新約聖書に出てくる使徒ヨハネは、若く、ハンサムにされることが多い。「イエスの愛しておられた弟子」という表現のためだろう。そして、イエスに関わる重要な場面でよくでてくる。教会でも指導的立場にあった。
彼の福音書は、イエスについて述べようとしている。その冒頭「はじめにことばがあった」を、神の発する言葉、あるいは言葉が神をあらしめるという解釈は無理がないかもしれない。しかし、イエスの愛弟子だと考えると、ヨハネの知っている「ことば」はロゴスに由来する法則や秩序を含んでいたはずだ。ミュトスが意味する空想に対比される理性を意味している。
しかし、そこには困難を伴う。一方で、ヨハネの黙示録の成立は、彼によるものではなく、後のヨハネ教団によるものだと考えられること。他方で、三位一体の成立によって神のことばであるイエスの本質がロゴスだとされることになった。それらの成立は、イエスやヨハネの没後で、その時期は重なるのではないか。
信仰の基礎は、「信じる」ことだ。一般的には、信仰の対象があるように見える。しかし、己が信じることが基礎だ。そこで、ロゴスのもつ論理が外れる。「ああ、そうだ」としか思いようのない感触が、信じることの核心だ。イエスも、たぶんヨハネも重々承知していたに違いない。かれらが知っていたことと、彼らが語ることは同じではない。
ヨハネは、信仰の対象としてのイエスを絶対にするためにロゴスを借りたのだ。彼の福音書の冒頭をロゴスからはじめたのは、神であるイエスに迫ろうとしたためだ。ことばを越えざるを得ないことを知っていて、なお論理を構築しようとしたのだ。
あのゲーハーの万年筆は、どうしたのだろう
学生時代に使っていたゲーハー、Gehaの万年筆のことを、ふと思い出した。よく書けるので、お気に入りだった。
舶来品は、まだ特別な感じをかもす時代であった。話題になるのは、高級品としてのモンブラン、ペリカン、パーカー。そうしたブランドの万年筆を買い求めて使っている友人もいた。
鞄に入れてふだん使っている万年筆の掃除をしようと思ったときに、突然、ゲーハーを思い出してしまった。引き出しの奥などを探してみたが、出て来なかった。
ゲーハー社を調べると、日本でポピュラーにならないうちに、ペリカンに買収されたらしい。
そのときどきで縁のあること。懐かしんで、当時の万年筆を再び使うこともない。その万年筆で満たされたそのときの思いは、心に残る。
(写真は、ゲーハー社の万年筆ではありません)
2018年09月13日
あのゲーハーの万年筆は、どうしたのだろう
学生時代に使っていたゲーハー、Gehaの万年筆のことを、ふと思い出した。よく書けるので、お気に入りだった。
舶来品は、まだ特別な感じをかもす時代であった。話題になるのは、高級品としてのモンブラン、ペリカン、パーカー。そうしたブランドの万年筆を買い求めて使っている友人もいた。
鞄に入れてふだん使っている万年筆の掃除をしようと思ったときに、突然、ゲーハーを思い出してしまった。引き出しの奥などを探してみたが、出て来なかった。
ゲーハー社を調べると、日本でポピュラーにならないうちに、ペリカンに買収されたらしい。
そのときどきで縁のあること。懐かしんで、当時の万年筆を再び使うこともない。その万年筆で満たされたそのときの思いは、心に残る。
(写真は、ゲーハー社の万年筆ではありません)
2018年09月09日
「未病」に行き当たってしまった
同じ時間帯に目覚めるのは、内臓への気の流れに障害があって、それが感情に連なる。時間帯によって、その機能する部位が異なる。その出典を探していたところ「黄帝内経(こうていだいけい)」に行き着いた。その中に「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」とある。
先日、「未病」が健康に生きるために、病気を治すのではなく、「未病』に気づき、対応することが必要だとお医者様に聞いた。今、また、その「未病」に出会ってしまった。