「瞑想は人生の基礎体力」を平成28年6月の感謝祭でお話しさせていただきました。本稿は、その要約です。
今日は、瞑想の話をお話します。宗教家ばかりではなく、宗教に関わる人たちにとって祈りは、とても大切なことです。「祈り」は、自分の願いを、神さまやご先祖様にぶつけることではありません。「いのり」は「い+のり」、つまり「い(神さまの力)+のり(法、あるいは宣る)」で、わたしたちが聞かなければなりません。聞くためには、瞑想状態でなければなりません。瞑想は、いろいろな場で用いられるますが、祈る人たちにとって必須の基礎的な体力です。野球選手は、野球のセンスがあるというだけではなく、確実に短距離走で速いのです。短距離走に優れていなければ野球はできません。そして、短距離走に優れていれば他にもできることも多いのです。
いきなりですが、箱の中に、ろうそく、マッチの代わりのライター、押しピンがあります。これを使って壁でろうそくを灯していただきたいのです。杓子定規に考えると、壁にろうそくを取り付けることができなさそうに見えます。じつはこの箱を押しピンで壁に固定すれば、ろうそくの台になるということに気づくことがみそだったのです。
この質問を二つのグループに分けて考えてもらった結果が出ています。一つのグループには、早く解答を得ると大きな報酬が得られると伝えられました。他方には、そうしたことを伝えていません。一般的には報酬の提示があると、解答のために注力するので、早く解答が得られるのです。ところが、この質問に対しての解答を早く得ることができたのは、そうした提示のないグループだったのです。
報酬の話は、エゴを喚起し、それまでの自分の既知の範囲で解答しようとしてしまうのです。ですから、箱は、ろうそく、マッチ、押しピンの入れ物にしか見えなくなるのです。わたしたちは、ものをそのままに見ることが難しく、主観を通して見てしまいます。人生全体が、自分を中心にするようにプログラムされています。これまで世間では自己実現がはやっていました。自分の価値体系で善し悪しを判断しています。そこにはより上位の判断の入る余地はありません。
「よい」ということに「義」「善」「良」の文字をあてることができます。「義人(ぎのひと、ぎじん)」「善人(ぜんにん)」「良い人」のいずれもよい人にあたります。「良い人」は自分にとって都合の良い人であったりします。世間では悪いことをしていても、たとえば自分にお金をくれるから「良い」人であったりするのです。「善人」は道徳的に正しい人です。「義人」は宗教的内容にマッチしている、あるいは神さまの言うことを聞く人のことです。一般的な人間にはできないようなことを守ろうとしているかもしれません。「良い人」が利己的であるのに対して「善人」や「義人」は利他的です。
自分の常識にとらわれると、ろうそくをともすために箱を使うことにすら気づかない状態になります。それを超えたところにほんとうの答があるのです。それを得るためには、自分の枠を超えるように努めなければなりません。
「善」は、中国で文字が発明されたときには、人が言い争っている中で正しい答を神さまにうかがうために羊をお供えすることを意味する「言羊言」のような文字だといわれています。また羊をお供えすることを意味するのが「義」です。かつては羊の下に鋸(のこぎり)がついていて、羊を切ってお供えしたのです。現在の文字では羊の下に「我」がついていますが、まったく意味がないようです。羊は旧約聖書を見ても大切なお供え物になっていますし、中国でも「善」「義」ばかりではなく、「羊」を含む文字は「祥」「詳」「美」「儀」「犠」「議」など特別な価値を有しているようにみえます。特別な価値は、自分の知っていることではなく、羊を捧げて得る神さまの意図にあることが分かるのです。
自分自身の枠にとらわれて、イライラしているときには、大脳辺縁系が活性化しています。脳の内側の方にその部位があります。感情が昂り、闘争的になります。それが意欲をもたらしもします。その近くに前頭前皮質があります。この部位が活性化するとリラックスし、物事に打ち込める状態になります。
わたしたちの人生では、リラックスして、ほんとうの答を得続けるようにする方が良いのです。そのために瞑想状態になるように努めるのです。