3月1日の感謝祭でのお話「鏡の法則と聞くこと」を要約しました。
鏡の法則は、聞く機会が多いかもしれません。自分の見ている世界は、自分の心を映しているということです。あるいは自分の目の前の人に感じていることは自分の姿だという表現もよくあります。つまり、相手の態度や言動をイヤだと感じたとき、自分が他人に対してしていることなので、それを改めなければならないということなのです。
聞くことには、3段階あって、聞く態度をとることと、理解することと、受け入れることがあります。相手が自分に見せてくる姿、あるいは聞かせる内容をイヤだなあと感じるのは、受け入れることができないからです。それが鏡の法則を発動して、自分の姿を見せてくれることになるのです。
あなたがある人を見て、ケチに見えても、他の人からみるとその人が、ケチでもなんでもないかもしれませんし、慎ましやかに見えるかもしれません。引き籠もりの子供は、学校や社会に係わっていないという意味で問題があるように見えます。しかし、父親、母親、周囲の人それぞれに感じ方は異なります。怠け者だと感じるか、その日常で見せる態度が不遜に見えてしまうのか、言うことを聞かないことに立腹するのかは、その子供をみる人のそれぞれが感じることなのです。
そして、その見せられている姿が、自分の改めなければならない部分なのです。人さまを見てケチに見えたとき、自分がケチなのです。その相手よりはケチではないかもしれませんが、自分の周囲のだれかよりもケチだということを自分が知っていて、自分を守るために人をケチだと責めることになるのです。相手が慎ましやかに見えたとすれば、自分が慎ましやかに見られていることにご自身でお気づきのはずです。人さまのケチな姿を見て、イヤな気分になったときには、自分のケチな部分を治さなければならないということなのです。
引き籠もりの子供を見て感じたこと、イヤな気分で怠け者だと感じてしまったら、じつは自分の怠け心を自分が見抜いてしまったということなのです。不遜な態度が気になったら、自分が他の人に見せている不遜な態度を改めなければならないのです。言うことを聞かない子にイヤな感じがしたのは、自分が人の言うことを聞かない者なのです。それを改めるように、引き籠もりの子供が見せてくれているのです。
人さまや子供を見てイヤだなあと感じる事柄は、自分自身は改めなければならないことを自分で気づいていることです。そのことを受け入れなければならないのです。それを相手を通じて学ぶことができるのです。
言葉には論理があって、感情が揺らぐ部分を探りやすいのです。ですから、相手の言うことを受け入れるように努めることがしやすいのです。まずは、聞く態度をすることです。相手がいろいろと自分に話しかけてもらいやすいように聞く態度を見せることです。それは自分自身を聞く体制にすることでもあるのです。膝を相手のほうに向けます。腕組みや足を組むと拒絶した姿に見えるので、腕や足を組まないようにします。手の甲を相手にみせているのは、自分を隠していることになるので、手のひらをみせるようにすることも良いことです。そして、同調することです。相手に合わせてしぐさをまねます。また、復唱したりすることで、相手とシンクロしていくのです。そうすると信頼ができます。
次に理解することです。相手の発する言葉を漏らさず聞き取ります。話そうとしている人は、思うところを話そうとしているので、聞くほうが理解できることを優先しているわけではありません。ですから、丹念にそれを組み上げて、相手が話そうとしていることを自分の中で整理して、理解していくのです。主語が抜けていたり、時間的な経過が前後していたりするわけですから、自分の中で組み上げなければならないのです。分かりにくいことがあったり、辻褄が合わない話に聞こえても、相手に問うてはいけません。相手の心に逆らうからです。合いの手を入れながら、しばらく聞くうちにその全体が見えてくるのです。そうすると、相手に対して、感情的なことに関係なく事実が見えてきます。
次に受け入れることです。これは、相手の言葉を理解しようとして聞くわけではありません。相手の言葉を、自分の感情でより好みするのではなく、全部そのままに受け入れるということです。相手をそのままに認めるということでもあります。
相手に対して、感情的に受け入れられない部分のない状態は、鏡の法則を適用すれば分かるように、自分がだれからも受け入れられている状態になっているということなのです。そのときに相手に自分と異なる部分が見えれば、それが相手の存在を認めた証左です。きちんと聞くことの先にある相手を受け入れることは、ある姿を持った自分が宇宙に受け入れられる、つまり本来の自分に立ち返らせてくれることになるのです。