2014年08月28日

慈愛の美醜

人を愛すること、慈しむこと、それは普遍的な価値です。弱い者を救ってあげたいと思うことでしょう。自分の身をなげうっても、子供や家族を守りたいと思うことでしょう。ずっと昔から、世界中で、知られる徳です。

人を愛し、慈しむために、己が精一杯に努力をしなければならないこともあります。金銭を使うこともあるでしょうし、時間を投じることもあるでしょう。人の攻撃から、自分が楯になって守ることもあるでしょう。そうした振る舞いのために、のたうち回る苦しみや身も引き裂かれんばかりの痛みを堪(こら)え、ときに人の憎しみに耐えなければなりません。

慈愛が美しいことだと多くの方は思うことでしょう。慈愛に満ちた方に美しいお姿を期待しているのかもしれません。慈しみ、愛することは、神々しい思いであり、振る舞いです。だれもがそう期待しているのです。

ところが、慈しみ、愛することは、現実を前に、どれほどに過酷で自らを傷つけることでしょうか。他人の称賛を受けるばかりか、非難を受けるかもしれませんし、過酷な労働に甘んじなければならないかもしれません。人前に出ることを憚(はばか)りながら、長年にわたって人を慈しみ、愛してきたき人が、老いさらばえた肉体と、苦しみぬいた表情を見せているかもしれません。そうであるにしても、慈愛の人生を疾駆した方は、紛(まが)うことなく神々しいのです。
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2014年08月21日

思考停止から悟りへ

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悟るというのは、ある何かを知ることだ。だが、その簡単なことがなかなか難しい。瞑想は悟るためのすばらしい方法だが、瞑想というツールにとらわれ、悟りに至りにくくなる。そこで、思考停止を用いて悟りに至る道程を示した。

瞑想と言えば、たいそうなことだと思う人は多い。寺で座禅を組む、それは一時間、二時間、あるいはそれ以上、脚(あし)の痛みをこらえながら、何も思わないというできそうにもないことへのチャレンジだと思う人が少なからずいる。

その瞑想への期待を抱えて、悟ることは無理だ。瞑想が目的ではない。悟ることだ。肉体をもって現実に生きる者たちが悟るには、瞑想をしようと試みたときに、それは、己の領域の外に瞑想をすることをイメージし、あるいは瞑想というある特別な状態を己に課そうと努める。そのために悟りを開く機会を失わせている。

そこで、思考停止を悟るために用いる。まず、日常の己の中の雑念を払う。その簡単な方法は、心の中のおしゃべりを止めることだ。椅子に座ってリラックスした状態で? そうであってもかまわないが、通勤の途中でも、食事中でもかまわないのだ。

そのとき、思考を停止するのだ。私たちは、ふだんから、つい何か思い、考えようとする。そのときにそれ以上に思い、考えることを意図的に止めるのだ。

そうすると五感がより強く働き始める。視線の揺らぎは小さくなり、周辺視野も含めて、その全体が見えるようになる。視線を固定することが目的ではない。思考停止によって、およそ視線が中央のやや下方に落ち着いてしまうということにすぎない。頭上からも、右手をまっすぐ右にのばしたその先も、左手を左にのばしたその先も、つま先までも、前方を見ているだけで、その周辺の全部をとらえることができる。周辺視野は、明瞭な像を結ばないが、見えるということだ。

手に持つバッグの重みばかりか、手の甲を空気の流れるさままでも感じることになるだろう。大気の香りも香ってくる。口の中で味や舌触りを感じるかもしれない。喧騒の中で見渡すかぎりの人さまの、あるいは視野には見えていない人たちのざわめきや街に響く鼓動のような音も一斉に聞こえてくることだろう。

一見すると、自分の五感の感度が上がったような状況になる。感じているその全体が己の周囲に満ち満ちていたことに気づく。そして、それを自らが全面的に受け入れ始めたことに気づく。同時に第六感と呼ぶ直感を呼び起こさせる。

このとき、満ち足りた自分に気づくことだろう。その先に悟りがあり、かなり近づいてきた。それでは、いつ悟るのか。もし、時間的経過があるとすれば、その後である。「あぁ、悟ったかもしれない」と気づくのは、答えが、自分の領域のすぐそばにあることに気づいたときだ。その答えというのは、問いがあって、その答えが導かれるのではない。悟りでは、必要なメッセージが、回答のような姿で自分の領域のすぐそばに用意され、その回答を得るような質問を自分が発し、そこにあった回答に気づくという感じである。それが悟りである。

私たちの成長は、己の領域が拡大することに他ならない。己の外側にある回答を自らの内に取り込み続ける作業なのだ。それを繰り返しながら、成長するのだ。そして、それは、質問と回答の内容が、より純化し、あるいはより抽象的になっていく。周囲を取り込んでいく作業によって成長することは、己の規範が、より高次の秩序に基づくことを意味している。そうして、私たちは、より高次の秩序に基づく理解をすることになる。その理解が、私たちの日常の生活の規範になり、思考、そして、振る舞いが、よりまったきものとなるのだ。

写真
著作者: j0sh
GATAGフリー画像・写真素材集 4.0
http://free-photos.gatag.net/2014/01/10/030000.html
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2014年08月10日

心の中のおしゃべりをやめなさい

わたしは、周囲の方に「思考を止めなさい」とアドバイスすることがよくあります。

一日中、何かを考えている方が少なからずいらっしゃいます。目に見えるその方の振る舞いは、仕事をしているようでも、あるいは道を歩いているようでも、食事をしているようでも、頭の中では、あれこれを思いめぐらせ、落ち着いていないのです。それは、自分の中の自分とのおしゃべりです。

心騒がしくして、望ましい方向に向かうわけがないではありませんか。方向が定まらないからです。さらに深刻な理由があります。パワーが自分から逃げるのです。

頭の中の思考のほとんどは、自分の内ではない部分に焦点をあてています。たとえば、仕事中に仕事に関係のないこと、勉強しているつもりで、資格を取ろうとしていることや、とった時のこと、これから出会う人のこと、通勤の途中で見かけた花壇の花に見とれたりするのです。それらは、自分のそのときの振る舞いそのものではありません。自分の外です。そして、たった今のことではなく、希望や思い出といった現在ではないいつか、未来や過去に焦点が行っていることも多いものです。それらは、たった、今いる自らの外ですから、現実ではない、つまり妄想なのです。そこに自分のパワーが流れてしまうのです。

ほんとうの自分ではない部分へのパワーの流出を止めることは、結局、自分自身をそのままに認めることなのです。その結果は、自分がフルチャージの状態を保てることになるのです。そうすると五感が、周囲を受け入れることになるので、すべての刺激を感じ始めます。周辺視野にある物の動きも感じますし、腕にあたる風も感じ始めます。かなたの音も聞こえ始めます。

たとえば、一人で食事をする時には、本を読んだり、テレビを見てはなりません。見えている、聞こえているのはかまいません。しかし、食事に専念するのです。栄養がどうだとか、カロリーがどうだとかも、その時点では無駄なことです。なんとなく目の前に見えている、あるいは香っている、食事のそのままを受け入れながら淡々と食事をするのです。心のおしゃべりを止める、つまり思ったり考えないように努めるのです。

人間らしい活動だと信じられている頭脳の働きを制限することが、自分自身の領域を拡張することになるのです。

そうすることで、自分の本質に接触し、脳内の雑多な情報は、一掃されます。その直後から、直感がさえ、あるいは勇気が湧き、正しい判断ができるようになります。
posted by ほうとく at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ・幸福 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする