悟るというのは、ある何かを知ることだ。だが、その簡単なことがなかなか難しい。瞑想は悟るためのすばらしい方法だが、瞑想というツールにとらわれ、悟りに至りにくくなる。そこで、思考停止を用いて悟りに至る道程を示した。
瞑想と言えば、たいそうなことだと思う人は多い。寺で座禅を組む、それは一時間、二時間、あるいはそれ以上、脚(あし)の痛みをこらえながら、何も思わないというできそうにもないことへのチャレンジだと思う人が少なからずいる。
その瞑想への期待を抱えて、悟ることは無理だ。瞑想が目的ではない。悟ることだ。肉体をもって現実に生きる者たちが悟るには、瞑想をしようと試みたときに、それは、己の領域の外に瞑想をすることをイメージし、あるいは瞑想というある特別な状態を己に課そうと努める。そのために悟りを開く機会を失わせている。
そこで、思考停止を悟るために用いる。まず、日常の己の中の雑念を払う。その簡単な方法は、心の中のおしゃべりを止めることだ。椅子に座ってリラックスした状態で? そうであってもかまわないが、通勤の途中でも、食事中でもかまわないのだ。
そのとき、思考を停止するのだ。私たちは、ふだんから、つい何か思い、考えようとする。そのときにそれ以上に思い、考えることを意図的に止めるのだ。
そうすると五感がより強く働き始める。視線の揺らぎは小さくなり、周辺視野も含めて、その全体が見えるようになる。視線を固定することが目的ではない。思考停止によって、およそ視線が中央のやや下方に落ち着いてしまうということにすぎない。頭上からも、右手をまっすぐ右にのばしたその先も、左手を左にのばしたその先も、つま先までも、前方を見ているだけで、その周辺の全部をとらえることができる。周辺視野は、明瞭な像を結ばないが、見えるということだ。
手に持つバッグの重みばかりか、手の甲を空気の流れるさままでも感じることになるだろう。大気の香りも香ってくる。口の中で味や舌触りを感じるかもしれない。喧騒の中で見渡すかぎりの人さまの、あるいは視野には見えていない人たちのざわめきや街に響く鼓動のような音も一斉に聞こえてくることだろう。
一見すると、自分の五感の感度が上がったような状況になる。感じているその全体が己の周囲に満ち満ちていたことに気づく。そして、それを自らが全面的に受け入れ始めたことに気づく。同時に第六感と呼ぶ直感を呼び起こさせる。
このとき、満ち足りた自分に気づくことだろう。その先に悟りがあり、かなり近づいてきた。それでは、いつ悟るのか。もし、時間的経過があるとすれば、その後である。「あぁ、悟ったかもしれない」と気づくのは、答えが、自分の領域のすぐそばにあることに気づいたときだ。その答えというのは、問いがあって、その答えが導かれるのではない。悟りでは、必要なメッセージが、回答のような姿で自分の領域のすぐそばに用意され、その回答を得るような質問を自分が発し、そこにあった回答に気づくという感じである。それが悟りである。
私たちの成長は、己の領域が拡大することに他ならない。己の外側にある回答を自らの内に取り込み続ける作業なのだ。それを繰り返しながら、成長するのだ。そして、それは、質問と回答の内容が、より純化し、あるいはより抽象的になっていく。周囲を取り込んでいく作業によって成長することは、己の規範が、より高次の秩序に基づくことを意味している。そうして、私たちは、より高次の秩序に基づく理解をすることになる。その理解が、私たちの日常の生活の規範になり、思考、そして、振る舞いが、よりまったきものとなるのだ。
写真
著作者: j0sh
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