「若くして気づいていたら、もっと自分の人生は良くなっていただろうに」と思う事柄がたくさんあります。しかし、たいていは周囲から聞き知っていたことです。家族が話していたか、学校で習ったか、先輩が言っていたことか、本で読んだか、どこかで聞き知っていたことをなおざりにしてきたのです。社会のこと、家族のこと、ほんとうらしいことに気づきはじめたとき、はじめて、そう言えば、聞いたことがあるぞ、と思い出すのです。先人のだれもがそうだったのでしょう。それを知っているから、老人は「今の若いもんは、、、」と言いながら、それ以上に若い人をとがめないのです。
孔子も、生まれながらに君子だったわけではなく、その時その時に学び、老境の域に達してはじめて、私たちが崇める孔子になったのです。
「論語によって培われた日本人の美徳 by 近所のご隠居さんGroups.」をご紹介します。
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「孔子」の一生
つぎの語句は「論語」の中にあるあまりにも有名な孔子の言葉です。
『子の曰く、吾れ
十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って、
矩を踰えず。』 (為政編)
わたしは十五歳で学問に志し、
三十になって独立した立場を持ち、
四十になってあれこれと迷わず、
五十になって天命(人間の力を超えた運命)をわきまえ、
六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、
七十になると思うままにふるまって、
それで道をはずれないようになった。
●『十有五にして学に志す』
孔子は、十五歳で学への志しを持ち、いったい何を学んだのでしょう。
今日に至るまで、孔子の教えを「儒教」「儒学」といいその教えを奉ずる人を「儒者」「儒家」と呼んでいます。それではこの「儒」とはどのような意味であったのでしょう。
「墨子」とか「荘子」に書かれている「儒」の行動について、これを要約 してみますと、そもそも「儒」と呼ばれる人々がいて、このひとたちは民間 の冠婚葬祭、とりわけ、葬儀に関与する職業集団であったらしいとの記述が あります。このことからしておそらく儒と呼ばれる集団は民間での冠婚葬祭 ことに、葬礼の指導者であり、葬式があると雇われていって葬儀に関する一切の儀式を導き、同時に、葬礼でのさまざまな実務の執行者だったと思われ
ています。
そして、孔子の学派が世に言う儒家と呼ばれていたのは、孔子その人が儒の集団の出身だったからだと思われています。この場合、父方の孔家は士家で儒とは関係が薄いのですが、おそらく、母方の顔徴在の一族が儒であったのではないかといわれています。
そこで孔子は民間の儒の集団から育って民間での祭礼儀式に通じたばかりか、彼が生まれ育った周王朝時代の魯の国に伝わる周王朝の祭礼儀式(「周の礼」:ときの身分制度のなかで、それぞれの身分に応じた儀式祭礼等のやりかたを定めたもの。)を学び取っていたようです。
●『三十にして立つ』
孔子は「三十にして立つ」と語ったように三十歳の頃には学問の師として世に立ち、弟子達も周囲に集まってきていたようです。弟子達の中には仕官の手立てを求めて入門してくる者もあるのですが、何よりも当の孔子自身が政界への登用を願っていたようです。
しかし孔子は、政治の中枢に参画して自らが信ずる正しい道を実現したいとの宿願を魯の国内でもなかなか達成できず、また、隣の国斉に自分自身を売り込みにいってもうまくいかず、結局、四十から五十歳代にかけて孔子はあせっていたとも言われています。
●『四十にして惑わず』
そうなると、孔子が「四十にして惑わず」と語ったのは、どういうことになるのでしょう。きっと、そうした動揺を自ら戒めてとかく心を惑わせがちな四十歳代、その時には心を引き締めて「四十にして惑わざれ」と言い残したのかもしれません。
●『五十にして天命を知る』
その後、宿願であった為政者としての孔子の経歴は、魯の国で中都の宰と司空・大司冦をつとめた、五十二歳から五十六歳までのわずか五年間でしかありませんでした。
そして、孔子は、時の敵対勢力の弱体化に失敗し、主だった弟子を従えて魯の国を去り、衛・曹・宋・鄭・陳などの諸国を十四年間にわたり放浪したのです。
●『六十にして耳順がう』
晩年は孔子六十八歳のときに妻が死去し、その翌年六十九歳で魯に帰国。
そして、この年に長男「孔鯉」が死去すると同時に孫の「子思」が生まれ、以後は、もっぱら古典の整理に従事します。
●『七十にして心の欲する所に従う』
孔子、七十一歳のとき弟子の「顔回」が死去。七十二歳のとき同じく弟子の「宰我」が斉で戦死。七十三歳のとき弟子「子路」が衛で戦死。
そして、七十四歳にして孔子はこの世を去ります。弟子たちは、三年間の心の喪に服した後、去っていきました。「子貢」のみがさらに三年の喪に服したといわれています。
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