2013年08月31日

夏の終わり

夏の終わり

まだ夏
きっと夏

けだるく蒸す暑さ

耳に届く滴(しずく)の音(ね)
すでにかき曇り
稲光(いなびか)る
容赦のない雨

まだ夏
きっと夏

煙る雨のあと
透ける空
ラベル:
posted by ほうとく at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月15日

自由権と社会権を有する人権の贅沢

お子さまのいらっしゃる方は、精一杯の愛情をお子さまに注いでいらっしゃることでしょう。しかし、子どもが、「俺は、あんたら(両親)の言うことなんて聞かないよ、好きなようにやりたいんだ。でもちゃんと学校に行かせてくれよ。小遣いも欲しいんだ」と言えば、少し小言を言ってあげないといけないと思われることでしょう。

私たち、日本人の人権は、自由権と社会権を有しています。それが当たり前のことだと思っています。自由権は、個人が自由にする権利です。社会権は、人間らしく生きる権利です。前者は国家の指図を受けないことを意味します。後者は、国家に個人の支援を要求しています。

国家に対して国民は「自由にさせてくれよ。でもぼくらの生存や教育を守ってくれよ」と言っているのです。ですから、私たち、日本人は、この世に生まれて、とても恵まれていると考えられます。
posted by ほうとく at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月14日

ぼくの宇宙は、砂粒の舞う段ボール箱の中だった

ぼくは、小学校のまだ低学年だっただろう。そのころ、考えていたこと。二階の勉強部屋の窓から見えるキラキラきらめく風景が見えていて、その先の建物の向こう側に、小学校があった。その南側には、純白の大きな砂粒の砂浜が広がっていた。砂粒のいくらかは、とても小さな巻き貝の殻で、穏やかに寄せる波は、ただ寄せては引くだけだ。海は、透けるブルーでエーゲ海を思わせる。その海の先は、あるところまでで、その先はないのだ。

事実は異なっている。あまりに近所のことで、知らないはずもなかった。部屋から思い浮かべるのは別の世界であった。キラキラきらめく世界がそこにあったのは、勉強部屋の南側の大きな窓ガラスが日の光を受けていつもきらめいていたからだ。私の通った小学校ではなかったが、運動会を見に行ったかもしれないし、夏休みに校庭に行くこともあった。その南側には砂浜などない。海は、歩いて10分も南に行かなければならない。そこには国際的な港があった。大きな船が入港し、また大きなクレーンが荷物を動かしていた。砂浜は、自転車で半時間ほど行かなければならない。もちろんエーゲ海などではなく、瀬戸内海に面した須磨の浜辺だ。

さて、そこで、さらにぼくは思う。その砂粒の一つ一つの表面に、数えきれないほどの何ものかが住んでいるかもしれない。その砂粒が舞って、宙に浮いた時、それは、ちょうどぼくらが夜に見上げた満天の星なのかもしれない。見上げる夜空は、真っ暗闇だ。なるほど砂粒の舞う宇宙は、神さまが手元に持っている大切な段ボール箱で、こそっと覗き見るかもしれないけれど、だいたい閉じていて、真っ暗なのだ。そこにたくさんの何ものかが表面に巣くっている砂粒が舞っているのだ。

これがぼくの宇宙の始まりだ。

さらに同じころ考えていたこと、人はどうして死なないのだろう。生かされているという結果にまでは、けっこう距離があった。中学生になるまで答えにはならなかった。だが、自分の都合で生きているのではなさそうだということにつながっていく。段ボールの中の真っ暗な空間に舞う砂粒に生きる何ものかがどうしようというのだろう。神さまが、気づかないかもしれないし、すべてお見通しかもしれない。いずれであっても、ふたを閉じた段ポールの中でしかない。だから、ちゃんとしておかなければならないと考えたのだ。
ラベル:宇宙 砂粒 神さま
posted by ほうとく at 12:26| Comment(0) | TrackBack(0) | ・古神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月13日

事実に基づく歴史が国際的な整合性に必須です

共通に認識できる領域がなければ、話し合いもできません。国際的な整合性は、客観的事実や論理的思考を拠り所にします。架空の話や事実に基づかない歴史を背景にして、国家的関係を維持したり、緊密にする話はできません。

私は、東アジアの古代史を丹念に見ています。そうした過去が現在の国際関係に影響していると考えることのできる部分も少なくありません。あるいは古代の他の地域、たとえば古代のエジプト、ギリシアやローマの歴史が互いに、あるいは東アジアと同時代に発生したことがらや、影響し合っていることが事実として見えてくることもあります。それらが現在に影響していることは当然のことです。

私は、必要に応じて他国で書かれた歴史書も読みます。自国で流布する歴史書の内容と異なることも少なくありません。

歴史は過去の事実の変遷です。それは、客観性に対する疑念から免れません。歴史は事実の羅列ではありません。しかし、創作でもありません。歴史は、世界観であり、そうであるがゆえに、歴史の記述は慎重を期するのです。

歴史の誤りの多くは、歴史的事実の恣意的な取捨です。歴史的推移のどこに注目するかによります。同時代的な選択もあります。

たとえば、国家の歴史を語ろうとした時に、より長い歴史を誇りたい誘惑に駆られます。過去の王朝を現在につながるとするならば、その王朝の都合の良い部分も不都合な部分も現在につながることを認めなければなりません。他民族による王朝であったり、人道的に芳しくないことの多い王朝であってもです。そうした事実を容認できない場合には、現国家の歴史はその後の歴史に限ればよいです。ところが、他の民族を蔑ろにしながら、その支配を受けた時代も自国の歴史に取り込めば、自らの国家は蔑まれた民族による統治の時代を含んでいたことを認めなければならないのです。

あるいは、ある人物が現国家の成立に重要な役割を果たしたことを受けて英雄とすることはよくあることです。ところが、当時、彼が外国の要人の刺殺によって、現国家成立を成し遂げたとすれば、彼は、事実としてテロリストだったのです。ですからその国家の成立の立役者は、テロリストであって、それを英雄視する国家だということになるのです。

現在の歴史学の扱いでは、より客観的な事実を積み上げて推移を語ろうと試みることになります。それができるかできないかが、現在の国際的な共通の土俵に立てるか立てないかを決するのです。
posted by ほうとく at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月05日

選挙啓発のお礼のお手紙をいただきました

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兵庫県選挙管理委員会から選挙啓発のお礼のお手紙を兵庫県単立宗教法人連合会に宛てていただきました。県政の推進に少しでもお役に立てるようにしたいものです。
posted by ほうとく at 15:37| Comment(0) | TrackBack(0) | ・兵庫県単立宗教法人連合会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする