共通に認識できる領域がなければ、話し合いもできません。国際的な整合性は、客観的事実や論理的思考を拠り所にします。架空の話や事実に基づかない歴史を背景にして、国家的関係を維持したり、緊密にする話はできません。
私は、東アジアの古代史を丹念に見ています。そうした過去が現在の国際関係に影響していると考えることのできる部分も少なくありません。あるいは古代の他の地域、たとえば古代のエジプト、ギリシアやローマの歴史が互いに、あるいは東アジアと同時代に発生したことがらや、影響し合っていることが事実として見えてくることもあります。それらが現在に影響していることは当然のことです。
私は、必要に応じて他国で書かれた歴史書も読みます。自国で流布する歴史書の内容と異なることも少なくありません。
歴史は過去の事実の変遷です。それは、客観性に対する疑念から免れません。歴史は事実の羅列ではありません。しかし、創作でもありません。歴史は、世界観であり、そうであるがゆえに、歴史の記述は慎重を期するのです。
歴史の誤りの多くは、歴史的事実の恣意的な取捨です。歴史的推移のどこに注目するかによります。同時代的な選択もあります。
たとえば、国家の歴史を語ろうとした時に、より長い歴史を誇りたい誘惑に駆られます。過去の王朝を現在につながるとするならば、その王朝の都合の良い部分も不都合な部分も現在につながることを認めなければなりません。他民族による王朝であったり、人道的に芳しくないことの多い王朝であってもです。そうした事実を容認できない場合には、現国家の歴史はその後の歴史に限ればよいです。ところが、他の民族を蔑ろにしながら、その支配を受けた時代も自国の歴史に取り込めば、自らの国家は蔑まれた民族による統治の時代を含んでいたことを認めなければならないのです。
あるいは、ある人物が現国家の成立に重要な役割を果たしたことを受けて英雄とすることはよくあることです。ところが、当時、彼が外国の要人の刺殺によって、現国家成立を成し遂げたとすれば、彼は、事実としてテロリストだったのです。ですからその国家の成立の立役者は、テロリストであって、それを英雄視する国家だということになるのです。
現在の歴史学の扱いでは、より客観的な事実を積み上げて推移を語ろうと試みることになります。それができるかできないかが、現在の国際的な共通の土俵に立てるか立てないかを決するのです。