「行者の言葉」を月に3度、催しています。それは無料のよろず相談です。日常的なご相談が多いのですが、ときにけっこう難しい事柄もあります。
日刊メルマガ「 少し気になる『明日はどんな日?』今日より幸せになりたいから(無料)」に掲載したことについてのご質問です。
『絶対』はありそうで、どこにもありません。うつろうことや、あるように見えることばかりが、ほんとうのことです。
とはどういうことですか。私の書いたことですから私に聞くのが一番確かです。しかし、書いたとおりなので、私には言うことがあまりないのです。
その前日、翌日も書き出しておきましょう。
(前日)イヤな仕事から離れる方法は、その仕事に一生懸命に取り組むことです。逃げ出せば、その先で同じ状況に陥ります。
(翌日)相手を手伝えば、あなたは幸せになります。相手に手伝ってほしいと願うと、あなたは不幸になります。
というように、いつも、難しいことを書いているわけではありません。
その日の質問「 『絶対』はありそうで、どこにもありません。うつろうことや、あるように見えることばかりが、ほんとうのことです。」の回答は、「そのままです。書いてあるとおりのことです。」ではお話にならないので、説明しました。そのとき、冷茶を飲み干した手元のガラスの器が茶托に乗って机に置いてあります。それを手に取って、説明を始めました。
それを見て、「ある」と思っています。触って、匂いを嗅いで、その器があると思っています。でも正しくは、そうした感覚を通じて、器から感じる視覚や、触覚を感じているのであって、その物がそこにあるという事実そのものではないのです。
でも、私たちは、その器についての知識があります。その器の由来、ガラスという成分、それがもたらす私たちの一般的な感覚、あるいはそのメーカーのことや製造方法を知っているかもしれません。その知識が、私たちの感覚を確からしく支援をします。存否そのものではありませんが、知識が感じることを裏付けているのです。そして、知識は、その人によって異なるのです。そのことによって、絶対ではないけれど、共通にそのものがあるらしいことを感覚的に確かめられることを説明したのです。
その物をどう感じて、知識がその物をどう捕らえるかは、ある人にとっても、一目見た時から、触れて、嗅いでいくにつれて、変化するでしょうし、思い出す知識も変化するでしょう。同じ物であっても、子どもの時と大人になってからのように時によって異なるでしょうし、人さまによっても異なるでしょう。
絶対の根源は、目の前にあるそれ(というのはその手元にあったガラスの器と思うものです。言葉では、その物ではなく、言葉に移し替たそのものにしかならなくなります)の有り様ではなく存否そのものです。ところがそれすらも確かめる方法はないのです。経験に照らして、だれもが認めるであろうことは知っているので、その知識によって推定して、絶対にある「だろう」と考えるわけです。そこで、絶対ではないことが確実になるのです。存在は、他に依存して推定しているのに過ぎないのです。
しかし、知識によって、その時々で、その物の感覚を確からしくするのです。
ある一瞬の存否は、考察したように、いかようにも知りようはありません。もしその物があるとすれば、そして、もしないとしてすらも、知識や感性がその物の姿を捕らえます。それは確定的ではありません。私たちの感じや知るところによってそれは異なり、あるいは、ある瞬間から、別の瞬間に変化するのです。その変化は、その人の中では確かなのです。また、自分の知識や経験に基づいて手元で感じ入っているそのものの有り様も確かなのです。つまり、絶対の根源、存否すらも誰にも確かめられないけれど、誰であっても、感じ入ることの変化を確実に知ることができ、また、知識を前提に、より確かにあるだろうことを知ることができるのです。
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