「南嶽慧思後身説」によれば聖徳太子は、天台宗開祖の天台智(ちぎ)の師の南嶽慧思の生まれ変わりだという。
関係する人物の生没年を並べてみた(wikipediaより)。
○慧思(えし, 515年(延昌4年) - 577年(太建9年))
○聖徳太子、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))
○鑑真(がんじん、鑒眞、688年(持統天皇2年) - 763年6月25日(天平宝字7年5月6日))
ここで、疑問が出る。慧思が没する前に聖徳太子が生まれることはできるのか。生没年に誤りがある、あるいはその説を唱えた人が生没年を知らなかったか、生まれ変わりが誤りなのか。
「禅師後身説」を唱えたのは思託(したく)だとされる。鑑真の門人で律・天台兼学の僧で、唐の沂州の人だ。思託は「大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝(略称「大和上伝」「大和尚伝」)」を著わした。
鑑真の門人の思託が「禅師後身説」を唱え、鑑真が彼の弟子の説によって日本に導かれたとすることに無理はないだろうか。ここで全体の脈絡に誤りがありそうだと思える。つまり鑑真の渡日の動機は別にあって、思託は「禅師後身説」を唱える必要があったのではないか。
思託の『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』などを元に淡海三船(おうみのみふね)が、『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』を著わした。遣唐使とともに入唐した栄叡(よいえい)と普照(ふしょう)が揚州で鑑真に来日を請うた。そのとき鑑真は長屋王とのやりとりを述べた。
日本国の長屋王は、仏法を崇拝し、千の袈裟(けさ)を造り、この国に贈ってきた。その袈裟の縁の上に、次の句を刺繍(ししゅう)してあった。
「山川域(さんせんいき)を異(こと)にすれど、風月(ふうげつ)天を同じくす。これを仏子(ぶし)に寄よせて、共(とも)に来縁(らいえん)を結(むす)ばん」
長屋王の思いが託されたこの詩を読めば、心動かされるだろう。それが鑑真の渡日の動機かもしれない。しかし、鑑真が渡日しようとしたときには、すでに長屋王の変で自害して12年も経っている。しかも、これが著わされたのは、日本に来てからだ。
生没年(wikipediaより)
○長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))
鑑真の身辺を思い、また、彼の心情を思い、門人の思託が配慮したのが「禅師後身説」なのではないかと思える。