2012年08月19日

古代のギリシア・ローマの祖先崇拝と東アジアの祖先崇拝(探求会要約)

(探求会での講話「古代のギリシア・ローマの祖先崇拝と東アジアの祖先崇拝」の要約です)

古代ギリシアや古代のローマには、祖先崇拝があった。古代のアングロサクソンやゲルマンにもあったと言われる。しかし、のちにヨーロッパがキリスト教に席巻され、祖先崇拝は消滅した。

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日本人にとっては、祖先崇拝はあまりに自明のことで、人類共通の心情だと信じているかもしれない。しかし、現在の世界で、祖先崇拝を心情として持っている、つまり宗教的活動にそれが盛り込まれているおよその地域は、中国、韓国、モンゴル、日本、アフリカの一部でしかない。

ギリシア人は、ギリシア語を話す一つの民族として、神話のゼウスとレダの娘、ヘレネの末裔だと信じられ、ヘレネスと自らを呼んでいた。

また、かのシーザー(ガイウス・ユリウス・カエサル、共和制ローマの就寝独裁官)は、叔母のユリアの追悼演説で、ユリウス氏族は女神ウェヌス(ヴィーナス)の子孫だと述べた。またローマ建国の王、ロームルスは、シーザーと同祖、ウェヌスに連なる。先祖に対して、そして、民族の始祖に対して、敬意の念をもっていることが想像できる。

また、古代ギリシアでは、死者を埋葬するために細かな取り決めがあって、土葬、火葬を問わず伝統的な儀式を執り行った。火葬のためには、その薪のまわりを3回まわった。骨壺は、埋葬されるまで、布で覆い光があたらないように保護した。埋葬のための葬列があって、近親者などが追悼演説を行った。埋葬後、墓で死者の霊に食事を供え、香を焚き、ランプを灯した。それらは私たちの見知っている日本の葬儀に似ている。

一方、日本の祖先祀りの象徴的行事、お盆は、主立った行事が仏壇の前で仏教で執り行われる。しかし、インドで成立した仏教とはかなり異なる。仏教では、帰依し、自ら解脱のために行じなければならない。死者やその肉体への執着もない。だから、葬儀や埋葬も異なる。そして、仏壇も、日本とモンゴルにしかない。そして、私たちは、阿弥陀如来など仏壇のご本尊ではなく、その下の段に置いたお位牌や過去帳に意識を合わせる。餓鬼となった目連尊者(もくれんそんじゃ)の母親を釈尊が救った。それを元に盂蘭盆経が中国で作られ、お盆の行事となった。お盆の行事を扱う仏教は、日本の仏教に変容している。

仏壇に置かれた位牌は、本来の仏教にはない。位牌の元は、孔子が創始したとされる儒教にある。儒教は、思想の体系を整え、国家を治めるために使われたが、孔子以前の原儒は、市井の葬祭に係わってきた。死者は、その肉体から魂魄(こんぱく)が離れる。子孫は、先祖を呼び戻すために先祖祀りをする。先祖の肉体の一部として残した頭蓋骨を依代(よりしろ)に魂魄が戻ってくる。その依代が、位牌になった。つまり、私たちは、仏壇の位牌を前にご先祖さんに戻ってきてもらっている。

祖先崇拝は、現在では、見渡せば東北アジアに限定された特殊なものかもしれない。ところが今は途絶えてしまっているものの、地理的には大きな隔たりがある古代ギリシアにも祖先崇拝があって、私たちの知るものに酷似していることを知るのである。
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2012年08月15日

探求会のテーマ「古代のギリシア・ローマの祖先崇拝と東アジアの祖先崇拝」(ホテル日航姫路)は、8月18日(土)

祖先を祀る古代ギリシア、あるいは古代ローマを紹介し、また日本の祖先崇拝の祀り方の形式がどのように形作られたのかを、今回の探求会では見ていきます。

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お盆が近づくと、多くの方が、その行事を滞りなく行おうと、親戚に連絡をし、お坊さんを呼びます。そして位牌の並ぶ、あるいは過去帳を置いた仏壇の前で読経をしてもらい、親戚一同で供養のための食事をします。

私たち日本人は、ご先祖さまを大事にします。両親よりも祖父母、祖父母よりもそれ以前のご先祖さまを大事にお祀りしようとします。人が亡くなると50年ほどで、仏教では先祖代々の仲間入りをし、仏さまになり、神道では、祖霊神となって、神さまになります。

日本の祖先崇拝の大きなイベントは、仏教の行事に見えるお盆です。しかし、先祖崇拝はお釈迦さんが説いてきた仏教由来ではなく、私たち日本人の原初的な世界観に由来し、あるいは先祖を大切にする儒教の形式に基づいています。

祖先崇拝は、人として当然のことだと、私たち日本人は思っています。祖先を祀ることが、生きている者たちに影響すると考えるからです。ところが、そのように考える地域は、日本、中国、韓国、モンゴルなど東アジアとアフリカの一部にしか残っていません。

祖先崇拝は人として当然どころか、かなり限られたところでの常識でしかないことが分かるのです。

キリスト教圏には祖先崇拝はありません。教会でもご先祖さまをしっかりお祀りしなさいとは言いません。お墓もかつてこの世に生きた方の記念の碑でしかありません。イスラム教であっても祖先崇拝をしません。

しかし、現在ではキリスト教の席巻する西欧においても西欧人の誇りある文化の源泉、ギリシア、あるいはローマに、かつては、祖先崇拝がありました。古代ギリシア人は、自らをヘレネスと呼びます。ヘレネスは、神話のデウカリオーンの子ヘレーンの子孫で、ギリシア人は共通の祖先を持つものと考えたのです。また、共和制ローマの政治家であるカエサルのユリウス氏族は、女神ヴィーナスの子孫なのです。祖先を大事にするので、死者の葬儀もとてもていねいです。

今回の探求会では、古代ギリシア、あるいは古代ローマの祖先崇拝を紹介し、また日本の先祖崇拝の祀り方が、東アジアの宗教的環境の中で、どのように整ってきたかを概観してみます。

どなたさまでも、お気軽にお越しください。

□日時 / 8月18日(土) 午後1時半から午後3時半
□場所 / ホテル日航姫路1階ファウンテン個室
・電車  JR姫路駅 中央改札口南へすぐ/山陽電鉄姫路駅より徒歩5分
・お車  姫路バイパス姫路南インターチェンジより車で3分
□費用 /1万円 (参加時にお支払いください)
□講師 / 中澤鳳徳
・参加される方は、メール、あるいはお電話でお知らせいただけると幸いです。
http://syusei.or.jp/gijyuku.html
修生会 〒672-8023 兵庫県姫路市白浜町甲2379
電話 079-245-0780

写真「パルテノン神殿」by Sakura Mina さん
フォトライブラリー : http://www.photolibrary.jp/
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2012年08月03日

凡夫のために仏典の「無我」を「非我」とする

仏教の書籍を読めば、「無我(むが)」は、よく出てくる言葉です。そして仏教の解説の多くは、無我(むが)を、「己がないこと」とていねいに説明しています。

しかし、これから仏教を学ぼうという者には分かりにくいのではないかと思います。思索の手がかりとして「非我(ひが)」が分かりやすいと思います。

初期の仏典では「我執(がしゅう、自分に対する執着)」の否定として「無我」を述べています。「自分に対する執着を否定する」ことは、「自分が無い」のではなく、「自分ではない」ということです。つまり本来の説明は「非我」です。「自分に対する執着を否定する」と、結果は「無我」に至ります。

仏教でよく扱う「空(くう)」にも同じことが言えます。「空」は、確たる姿がなく、移ろうことを示しているはずです。しかし仏教の解説では「空」を「何もないこと」と済ませようとします。移ろうのですから捉えようもなく、確たるものがないことの結果は「何もない」と言うことなのです。

お釈迦さんが、気にしていなかったのか、よく分かった弟子に向けた言葉だったのか、パーリ語、あるいはサンスクリット語では、その区別がなかったのか、中国語への翻訳時に結果として分かりやすい「無我」にしたのか、私には分かりませんが。

仏教の初学者が仏典を読み、帰依するのには、我執の否定を「無我」とせずに「非我」と呼ぶ方が分かりやすいと考えます。
posted by ほうとく at 18:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月01日

パワーと秩序を授かる神さまの場に行って、幸せになろう

日常の生活でがんばっていると、バテたり、どうしていいのか分からなくなったりするよね。そうしたら、神社などに行ってみよう。「やっぱり神頼み」という時もあるからね。分かっている人たちにとっては、パワーと秩序を授かる場。

元気がなくなってきたら、ご飯を食べる。そうすると眠気が襲ってくる。腹が立ったら、怒鳴ってみる。たいてい問題は大きくなる。困ったことにであうと書籍で調べる。知識が増えて、迷いが増える。結局、現実の問題を現実の方策だけで解決することはできない。

付け刃(つけやいば)ではうまくいかない。基礎を抑えておかなければならない。「基礎ってなんやねん(基礎とは何か)」。野球選手であればパッティングではなく、基礎体力。人生では、目には見えない「気」や生き方の原理や原則。

それで
「どこ行ったらええねん(どこに行ったらいいのか)」

どこかに行こうかなあって思っているから、「どこ?」になるけれど、大体のめどはついているはずだよ。

近所のキリストの教会か、有名な神社か、大きなお寺か、山奥の磐座(いわくら)か、山の際にある祠(ほこら)に行けばいいのか、、、。神主か、法螺貝(ほらがい)を持った修験者(しゅげんしゃ)か、霊能力者か、いたこか、ヨガの先生か、法被(はっぴ)を着て布教しているいる人か、タロットの占いの先生と話をすればいいのか、、、、。

想像していなかったのも多いでしょ? つまり、「ここ(こういう所)」をある程度考えていたんだよね。ということで、およそ行く所は決まるね。

そこで「どないしたらええねん(どうしたらいいのか)」となる。

お寺のご住職の説法を聞けばいいのか、神社で巫女さんにお祓いをしてもらったらいいのか、キリスト教会で懺悔(ざんげ)をしたらいいのか、いよいよ、どうしたらいいのかわからないよね。足ツボマッサージのようなメニュー表も料金表もない。

とりあえず気になるところに行くことだよ。こっそり、あるいはどうどうと。そこの雰囲気が分かる。目的があったら、それに沿って、関われそうな行事に参加し、境内のパワースポットを探し、あるいは必要なお守りなどをゲットしよう。そこの主(あるじ)と話ができたら、なるほどと分かることも多いだろう。

ぼくもいろいろなところに、こっそり、あるいは、どうどうと行った。先生がいらっしゃって、お話を伺うこともある。行事に参加することもある。

うち(修生会)にも、頻繁に来られる方ばかりではなく、こっそり、あるいはとつぜん来られる方もいる。お守りを受け取って、すぐにお帰りになる方もいらっしゃる。ネットでやりとりをして、お越しになる方もおられる。長時間話し込むこともある。

日常で表面的に作業をこなしても、うまくいかなくなることがある。神頼みでも願うことをかなえたいと思うことがある。日常で穢れるせいか、元気が落ちて、ほんとうのことが分からなくなることもある。

神さまの場に行くのは、己の魂を揺さぶり、あるいは鎮め、人生の指針を自ら見いだす生活のコアな部分だったと分かる。その場の空気を、しっかり吸って、幸せにならなきゃね。
posted by ほうとく at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ・神さまごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする