古代ギリシアや古代のローマには、祖先崇拝があった。古代のアングロサクソンやゲルマンにもあったと言われる。しかし、のちにヨーロッパがキリスト教に席巻され、祖先崇拝は消滅した。
日本人にとっては、祖先崇拝はあまりに自明のことで、人類共通の心情だと信じているかもしれない。しかし、現在の世界で、祖先崇拝を心情として持っている、つまり宗教的活動にそれが盛り込まれているおよその地域は、中国、韓国、モンゴル、日本、アフリカの一部でしかない。
ギリシア人は、ギリシア語を話す一つの民族として、神話のゼウスとレダの娘、ヘレネの末裔だと信じられ、ヘレネスと自らを呼んでいた。
また、かのシーザー(ガイウス・ユリウス・カエサル、共和制ローマの就寝独裁官)は、叔母のユリアの追悼演説で、ユリウス氏族は女神ウェヌス(ヴィーナス)の子孫だと述べた。またローマ建国の王、ロームルスは、シーザーと同祖、ウェヌスに連なる。先祖に対して、そして、民族の始祖に対して、敬意の念をもっていることが想像できる。
また、古代ギリシアでは、死者を埋葬するために細かな取り決めがあって、土葬、火葬を問わず伝統的な儀式を執り行った。火葬のためには、その薪のまわりを3回まわった。骨壺は、埋葬されるまで、布で覆い光があたらないように保護した。埋葬のための葬列があって、近親者などが追悼演説を行った。埋葬後、墓で死者の霊に食事を供え、香を焚き、ランプを灯した。それらは私たちの見知っている日本の葬儀に似ている。
一方、日本の祖先祀りの象徴的行事、お盆は、主立った行事が仏壇の前で仏教で執り行われる。しかし、インドで成立した仏教とはかなり異なる。仏教では、帰依し、自ら解脱のために行じなければならない。死者やその肉体への執着もない。だから、葬儀や埋葬も異なる。そして、仏壇も、日本とモンゴルにしかない。そして、私たちは、阿弥陀如来など仏壇のご本尊ではなく、その下の段に置いたお位牌や過去帳に意識を合わせる。餓鬼となった目連尊者(もくれんそんじゃ)の母親を釈尊が救った。それを元に盂蘭盆経が中国で作られ、お盆の行事となった。お盆の行事を扱う仏教は、日本の仏教に変容している。
仏壇に置かれた位牌は、本来の仏教にはない。位牌の元は、孔子が創始したとされる儒教にある。儒教は、思想の体系を整え、国家を治めるために使われたが、孔子以前の原儒は、市井の葬祭に係わってきた。死者は、その肉体から魂魄(こんぱく)が離れる。子孫は、先祖を呼び戻すために先祖祀りをする。先祖の肉体の一部として残した頭蓋骨を依代(よりしろ)に魂魄が戻ってくる。その依代が、位牌になった。つまり、私たちは、仏壇の位牌を前にご先祖さんに戻ってきてもらっている。
祖先崇拝は、現在では、見渡せば東北アジアに限定された特殊なものかもしれない。ところが今は途絶えてしまっているものの、地理的には大きな隔たりがある古代ギリシアにも祖先崇拝があって、私たちの知るものに酷似していることを知るのである。