次回6月19日(土)の探求会のテーマは、「平城京の都市デザインに見る権力関係」です。
飛鳥時代、藤原京で日本の天皇制が確定していきました。その制度を踏まえて、次に遷都した平城京の都市デザインには、天皇家に準じる大きな権勢の影響が見えます。唐の長安をモデルにした都市は、首都としての都市機能とは別に、国家的権勢と天皇家と周囲の権勢の関係が大きく都市デザインに影響したと考えられるのです。
藤原京も平城京も都市機能を発揮させるには、糞尿やごみの処理を含む水利が不十分だという指摘もあります。そのために次の首都へ遷都されたと言われます。しかしそうならば平安京も遷都当時には環境が整った都市ではなかったのではないかと思えます。飛鳥の時代、秦氏が京都の治水などをして利用できるようになった地域を首都として利用するには、かなりの創意工夫が必要だったと思えるのです。
前回の探求会で、藤原京、平城京、平安京がいずれも巨大な都市開発でありながら、その遷都は飛鳥時代までの天皇の怨霊遺棄の習慣に倣っていると指摘しました。天皇制という日本のグランドデザインができて、大和三山を含む藤原京から奈良の都、平城京、そして京都に作られた平安京に移っていく中に見える怨霊封じは、時間の経過を追うことで、見えてくることです。
今回は平城京を採り上げ、都市デザインに及ぶ権勢を見ていきます。平城京には、藤原京から移ってきた寺を含め多くの寺院があります。寺院の建築物は、大きな建築物を有しない住宅の並ぶ都市で抜きんでていました。平城宮の西には西大寺、東を見渡すと東大寺があります。東大寺は現在の大仏殿より大きな建物であり、その東西には高さ100メートルの七重の塔があったといいます。平城宮から東大寺の右のほうに目をやると春日の御蓋山(みかさやま)があります。そこには、遷都された年に藤原不比等が藤原家の守護神、祖神を遷して祀った春日神社があります。
平城宮東隣りには、天皇家にもっとも近い藤原不比等の屋敷、その南、平城宮東南には、天皇家と藤原家に近く、大きな権勢を持った長屋王の屋敷、さらに南に一条行くと市原王の屋敷、その東には藤原仲麻呂の屋敷、、、、。10万人都市の中での高級貴族から中級役人とその家族、数千人の営みが見えてきます。
探求会「平城京の都市デザインに見る権力関係」
日時 / 6月19日(土) 午後1時半から午後3時半
場所 / ホテル日航姫路 1階ファウンテン個室
費用 /1万円 (参加時にお支払いください)
講師 / 中澤鳳徳
セミナーの内容を録画、録音して、活用することがあります。