2010年05月31日

説明できない行動の背景

ステーキ屋さんの前に立った人Aさんがいるとします。でもその人が自分の財布にお金が乏しいことに気づいて、その店に入らずに立ち去ったとします。

周囲の人Bさんにの確実に分かることは、ステーキ屋さんの前に立った人Aさんが立ち去ったということです。想像できることは、その人は、ステーキを食べようとしたのだろうということです。でも立ち去った理由はBさんには分かりません。

もしBさんが気になってたまたま見かけたAさんに声をかけて理由を聞いたら、答えてくれたでしょうか。「ほっといてくれ、人のことなんだから」というのがふつうですよね。「ダイエットをしているんですよ」「急にうどんを食べたくなったものだから」と言ってもらえるかもしれません。

いずれもAさん自身がステーキ屋さんに入らなかった理由ではありません。自分の財布にお金が乏しいという理由を言いたくなかったのです。

他人さんに説明しない、あるいは説明できない行動の背後には、隠したいこと、つまり言いたくないことがあるのです。それが周囲で分からないから不審に見えるのです。サラリーマンが仕事場で、隠したいことが出てくるかもしれません。家族に隠したいことがあるかもしれません。政治家が隠したいことがあるかもしれません。報道関係者が隠したいことがあるかもしれません。

説明に窮するのは、自分が失いたくないものがあるということです。

これまでの社会では、社会的地位や経済的利益が重要な価値を持っていました。そうした価値を重視する人は、たとえ周囲から不審に思われても、社会的地位や経済的利益を失うことになる説明を回避しようとするのです。
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2010年05月29日

携帯電話のパワーに高校生は気づいている

高校生は、携帯電話が好きだ。男の子でも、女の子でも、携帯電話が大好きだ。高校生の携帯電話は、実用に供する宝物。毎日、いつでも手離さずに、てもとに持っていて、ことあるごとに携帯に向かっている。何をしているのかは、分からない。メールのやりとりか、ゲームか、ブログやウェブを閲覧しているのか。

なんて素直なんだろうと私は思う。携帯電話のパワーを感じて、いつでもそばにおいておきたいと思うのだ。

電車の中で何人もの高校生が並ぶと、目線を落として、自分の手にある携帯の画面を真剣に見ている。整然と新しいお祈りをしているようにも見える。

携帯電話には、現在の技術者のすさまじいパワーが込められている。よりコンパクトな躯体にとてつもない機能を盛り込もうと努力してきたことが見て取れる。そしてそれが形状も色も美しいときたものだ。

現在、私たちの回りにあるツールのなかで携帯電話は、機能、意匠が卓越していて、そして実際にはコミュニケーションツールであり、情報機器である。これほど魅力的なものは、高校生の回りには他にはないのではないか。そしてけっこう高額なものだ。

その直感を大事にしてほしい。いずれ大人になれば、他の楽しみを見いだすだろう。大人だって携帯電話は手放せない。でも宝物というほどではない。宝物は、他に出てくる。

李朝の陶磁器に見惚れるかもしれない。おいしいお酒かもしれない。スタンダードジャズかもしれない。ビンテージのジーパンかもしれない。太極拳かもしれない。盆栽かもしれない。いずれも経験が必要だ。自分の中の知識と感性のありったけを駆使して楽しむのだ。それは、限られた人たちしか分からないのだ。携帯電話のすごさの分かるからこそ、経験を蓄えて、その先の宝物を見いだしてほしい。
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2010年05月28日

ブログのデザインを変えてみました。気分が変わって、いいことがありそうな気がします

感情が、現実を大きく左右します。今日は、ブログのデザインを変えてみました。ブログのデザインが変わると気分も変わります。気分が変わって、いいことがありそうな気がします。
posted by ほうとく at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月26日

あなたが、人生のドラマの主人公だ

私たちの一人一人の人生は、その人の運命にゆだねられている。持ち合わせた自身の力と環境によって、得るものを得て、捨てるものを捨て、生涯を終える。

すばらしい友人たちと遊んだ、学んだ、恋愛をした、高い社会的地位を得た、経済的に豊かになった、新しい価値を創出した、感性で社会を豊かにした、職人技を後輩に教えた、法律を変えた、業界を変えた、伴侶を得た、ケーキを作った、病に臥した、ケンカをした、レースのテーブル敷きを買った、花を摘んで部屋に飾った、家族のために家を建てた、看病をした、子供を学校にやった、介護をした、墓を建て直した。

ときどき、嬉しくて、楽しくて、でも多くは、辛くて、面倒で、悲しい。一人ひとりが、何にも買え難いすばらしい思い出を抱えている。その一つひとつが、自分自身と周囲の接点で生じている。

その生涯は、自分のドラマだ。真っ只中にいる自分には筋書きが読めない。どれもこれもが伏線になっていて、すべてが必要だったのだ。あとになってその筋書きが分かる。生涯は、なんとドラマチックなのだ。

自分一人じゃない。自分の舞台のために、だれもが力を貸してくれている。総監督の意図は、ステージでは理解しきれない。主人公の自分は脇でゆっくり休んでいられない。自分がその役を全うすることで精一杯。すべてを終えて、緞帳が降りて、照明が落ちる。そこではじめて台本を通しで見せられる。死を迎えて、けっこういい役だったなあと思いたいものだ。
posted by ほうとく at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ・幸福 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月10日

5月9日のつぶやき

輪読会で、神さまごとについて口走ると、神殿のあちこちで音がします。
約23時間前 webから

今日の輪読会、終えました。
約23時間前 webから

posted by ほうとく at 14:21| Comment(0) | TrackBack(0) | twitter | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする