2016年10月08日

仏教発祥の地、インドのタージ・マハルは、イスラム教のお墓です。

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ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのため建設した総大理石の墓廟です。1632年着工、1653年竣工と言われています。インドのイスラーム文化の代表的建築物です。ムガル王朝の皇帝は大きな霊廟を備えています。

インドは、ヒンドゥー教の国です。広くいうと、紀元前2300年頃から現れたインダス文明の時代から現代にまで続くインドの文化の基層をなすものです。ヒンドゥー教徒は墓を持たず、遺体は火葬され遺骨や灰は川に流します。また、霊魂は永遠と考えるイスラーム教徒でも墓は簡素なものです。

タージ・マハルは、大きく、美しい礼拝施設になっています。霊廟としては、専制君主の権勢を示す目的になっていて、ほんらいの宗教的な意味合いとは異なるものです。
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2015年11月04日

高麗青磁と武臣政権

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青磁は、中国で発達した陶磁器で、南宋(12世紀から13世紀)の時代に最盛期を迎えます。日本、東南アジア、朝鮮半島にも伝播しています。

朝鮮半島では、高麗の時代(10世紀から14世紀)に、多くの青磁が作られています。その中でも12世紀が最盛期だといわれます。その時期に象嵌青磁も作成されています。1123年、宋の徐兢(じよきよう)は、見聞記『宣和奉使高麗図経』を著わしています。その中でその時期に高麗青磁のきれいな青色を出せるようになったとしています。

朝鮮王朝を支えていた両班(やんばん)は、文臣と武臣です。文臣が尊ばれていたために、武臣の不満から1170年に庚寅の乱(こういんのらん)が起きました。その後、武臣政権が100年間続きました。武臣政権の執権舎が李義方から林惟茂まで11人います。その初代、第11代を含め、6人が殺害されています。

象嵌青磁は、その武臣政権がはじまってから盛んになっています。つまり、南宋で、12世紀から13世紀にすばらしい青磁が作られ続けている間に、高麗では、1120年ごろに、青磁の色が出せるようになり、1170年ごろ、武臣政権になってから象嵌が盛んになり、その後、1270年に武臣政権を終え、14世紀半ばに粉粧灰青沙器に代わり始めたのです。

写真、象嵌青磁雲鶴文梅瓶
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%9D%92%E7%A3%81#/media/File:Korea-Goryeo_celadon-02.jpg
Description: Goryeo celadon, Korea
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2014年09月12日

人気の衰えない記事があります「事実に基づく歴史が国際的な整合性に必須です」

昨年(2013年)8月に書いた記事が、どういうわけか今年の5月から人気が出てきて、今も多くの方々に読まれている様子です。感謝です。

「事実に基づく歴史が国際的な整合性に必須です」が、それです。この4ヶ月間、その記事の人気が衰えないのは、どうしてなのでしょうか。書いた当人にも理由が分かりません。

おりがあれば、翻訳して、英文でもアップしてみましょうかねぇ。
posted by ほうとく at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月19日

当ブログの人気の記事は「事実に基づく歴史が国際的な整合性に必須です」

わたしは神官をしています。ですから、神さまごとの記事を多く書いてきたように思っています。ところが最近、一カ月以上にわたって、とてもよく読まれいている記事は、2013年8月13日の「事実に基づく歴史が国際的な整合性に必須です」なのです。

先月の9日頃から人気が出ているようです。どうしてなのでしょうか。

「事実に基づく歴史が国際的な整合性に必須です」
http://kamitohito.seesaa.net/article/371918244.html
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2014年02月12日

靴磨きのおじさん「シューシャンボーイ」のこと

ぼくの子どものころ、まだ国鉄の駅の近くの高架下には、たくさんのシューシャンボーイがたくさんいた。「shoes shine boy」だろう。そのころ、すでにシューシャンボーイではなく、靴磨きのおじさんたちだった。彼らはどこに行ったのか、高架下で見ることはなくなった。

「国鉄」も現在「JR」と呼ぶ。祖母は「省線」と呼んでいた。見た目には同じように鉄道があっても、その呼称も変わる。高架下の風景も時代によって変わっていく。

ぼくが知っているのは、戦後すぐのことというほどに昔のことではない。だから「おじさん、靴を磨かせてよ」などという少年のシューシャンボーイはいなかった。靴磨きの人たちのだれもが、そこそこの年齢に見受けられた。

ぼくが、学校を卒業してまもなくの頃だったろう。ぼくは、ときどき彼らに靴を磨いてもらうようになった。同じ場所で磨いてもらっていた。だから、同じおじさんだったのだろう。

足載せ台にぼくの片足を置いて、人生の先輩に靴を磨いてもらう。低いいすに座った靴磨きのおじさんの頭上から眺めながら、ぼくはいつも照れくさかった。それでも、ときどき磨いてもらいに行った。彼らの手に掛かるとあっと言う間に、ピカピカに磨き上げてくれる。

もしかすると、ぼくらがシューシャンボーイに靴を磨いてもらった最後の世代になるのかもしれない。もう、その同じ場所で靴磨きのおじさんを見かけなくなった。

ぼくは、自分で靴を磨きながら、彼らの使い込んだ道具や、たちまち磨き上げる技をときどき思い出す。
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