2010年03月07日

神域の境界に注連縄

神社にお参りをすると、鈴緒をゆって、鈴を鳴らし、お祈りを捧げますね。そこが神域と俗世の境界です。

鈴のそばには、注連縄(しめなわ)が張ってあります。注連縄には、白いジグザグの紙がぶら下がっています。注連縄から垂れ下がっているその白い紙を紙垂(かみしで)と言います。

さて、出エジプト記19章12節に「山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい」とあり、モーゼがシナイ山で十戒を授けられる時、神域を設けられたとされています。旧約聖書の出エジプト記最終章の最終節には「昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火(稲妻)があるのをいつも見ていたからである」とあります。

神社の鈴の音は、雷、つまり神鳴りで、藁を結(ゆ)って作った注連縄は、雲、そして紙垂は、稲妻を表しているのかもしれませんね。
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2010年02月26日

食事は、量か質のどちらかを選ぶ

わたしたちは、おいしいものをたくさん食べようとします。周囲に関係なく生きていけるのならば、自然のことかもしれません。

実際には、私たちは多くの人たちのおかげで、生きています。そうしたときに、おいしいものをたくさん食べようとするのは強欲です。

ケーキを、口いっぱいに頬張ったときに、周囲の視線が気になりますね。ステーキをおなかいっぱいに食べたときに、贅沢を感じますね。その直感を大事にしましょう。

他人さんといっしょに生きていかなければならないのです。ですから、慎ましく生きなければなりません。

おいしいものを食べるときには、小さなものを、あるいはわずかな量 だけいただきましょう。たくさん食べたいときには、質素なものを、あるいは簡素にいただきましょう。

控えめなあなたを神さまが支援します。
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2010年02月25日

たくさんの幸福を受けとる

私たちは、いつでも自分と周囲の者たちの幸福のために大きな努力をしてきました。ところがある時期には、経済的豊かさを念頭に置いていたのです。そうして家族を幸福にしてきた時代があったのです。しかし家族の中にも、そして世界の経済でも、問題がとてもたくさん噴出してきました。価値の体系が変化しつつあるのです。

問題はじつに簡単です。経済的な豊かさは、幸せの中のほんの一部分だったのです。自分の身近な人たちだけを幸福にするために、たくさんの幸せを捨ててしまったのです。

古神道では、別の筋書きがあります。偉大な配慮が、自然の、そして私たちのすべてに及んでいます。ですから、私たちが自分の都合で幸福の取捨をしなくてよいのです。私たちの幸福は、用意された配慮の全部を、そのままに受け入れることなのです。つまり私たちが経済的な利益だけを選んで受けとらなくても、受けとれる幸福はたくさんあって、その全部を受けとらせてもらえるのです。浅はかな智恵で、その一部分だけを受けとって、不平不満を言わなくてもよいのです。

身の回りにある幸福の徴(しるし)を見落とさないで、配慮していただいた幸福を、より多く受けとらせていただきましょう。
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2010年02月24日

神社の鈴は、ゴロゴロいいます

神社の拝殿に坪鈴がついていることがありますね。鈴緒を揺するのです。そうするとゴロゴロと鈴がいいます。

修生会の聖霊殿(本殿)にも、鈴がついています。どこの神社にもあるというわけではありません。

お寺の梵鐘は、ゴォーン
仏壇のおりんは、チンやコーン
根付の鈴は、チャリチャリ
巫女(みこ)さんの巫女鈴は、シャン、シャン
神楽舞(かぐらまい)を巫女が舞うとき手に持って鳴らすもので、邪気を祓うのですね。マーラーの交響曲第4番などオーケストラでも出てくるスレイベルも同じような音がします。

寺社で鳴らす鈴や鐘は心地よい音のものが多いのです。

神社の鈴は、ガラガラやゴロゴロ
神さまの注意を引くために鈴を振り鳴らすというのです。でも、神さまの前で、ガラガラやゴロゴロという心地よいという音でもない音をたてるのは、おかしい、と思う人も多いことでしょう。

新約聖書のヨハネの福音書12章28節、29節
jhn12:28 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」

jhn12:29 そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。

とあります。坪鈴は、雷の音に聞こえた神の声を模したのかもしれません。「神鳴り」ですから。
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2010年02月22日

「日常に宿る神々とともに」を探求会でお話しました

昨日、「日常に宿る神々とともに」を探求会でお話しました。私たちが、当たり前に神々とともに過ごしていることを、いくつかの事柄をあげながらお話しました。

月も太陽も木も岩も山も風も日本では信仰の対象です。しかしアニミズムではないのです。すべてに神が宿るといいながら、私たちは、きわだつものを崇めるのです。山でも、薪を拾う山と信仰の山は別なのです。

また言葉も大事にしています。「御飯(ごはん)」の「御」は、天子や天皇を表します。「飯」は、かつては「いい」だったのです。御飯を「めし」と言いますが、下品な言葉ではありません。「召す」の連用形からきています。これもありがたい言葉です。「食べる」は「賜(たまわ)る」から来ています。そして「いただきます」の「いただく」は「頂き」で、ありがたいので頭上に受けとるのです。「ます」は丁寧語ですね。「食べ物」「御飯」「めし」のいずれも神さまの物だったものを私たちがいただいているのです。「いただく」も神さまからいただくことです。

結婚式を、ご神前でするようになったのは、大正時代からです。しかし古来からの忌み詞があって、言霊に由来しています。

山上憶良(やまのうえのおくら)は、

「神代(かみよ)より 言ひ伝て来(け)らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり(894)」

よい言葉を使おうとする古来からの伝統が、日本にはあるのです。

人間の窺い知れない大きな配慮の中で、すべてのものやことにまで神が宿ると考えるのです。その配慮を、私たちは、そのままに受け止めさせていただけば、よいことが分かるのです。
posted by ほうとく at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ・古神道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする