2017年05月09日

自分のコントロール下で怠ける

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頑張り屋さんは、がんばります。ところが、自分の期待している頑張りと、現実が異なることがあります。一方では思い通りにがんばれないことがあります。そうすると、できなかったことに意識が向かい、「いっそ」「どうせ」と考えて、あるいは休憩と称して怠けてしまいます。他方、思う以上にできたときや、周囲から高い評価を受けると、少しぐらい怠けても良いと思って、やはり、怠けてしまいます。いずれの怠けかたも、頑張り屋さんには、想定外なのです。ですから、怠けることを自分で調整できない、ノーコン(ノーコントロール)状態になるのです。その結果、怠けすぎることになります。

自分が、頑張り屋さんだと思うならば、怠けることも自律して実行できるようにしておく必要があります。あらかじめ、怠ける時間や怠けかたを用意しておくのです。そうすれば、思う以上にできたときや、逆にできなかったときに、自分のコントロール下で、つまり自律的に怠けることができるのです。依存しない怠けかたができるのです。
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2016年03月09日

鏡の法則と聞くこと

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3月1日の感謝祭でのお話「鏡の法則と聞くこと」を要約しました。

鏡の法則は、聞く機会が多いかもしれません。自分の見ている世界は、自分の心を映しているということです。あるいは自分の目の前の人に感じていることは自分の姿だという表現もよくあります。つまり、相手の態度や言動をイヤだと感じたとき、自分が他人に対してしていることなので、それを改めなければならないということなのです。

聞くことには、3段階あって、聞く態度をとることと、理解することと、受け入れることがあります。相手が自分に見せてくる姿、あるいは聞かせる内容をイヤだなあと感じるのは、受け入れることができないからです。それが鏡の法則を発動して、自分の姿を見せてくれることになるのです。


あなたがある人を見て、ケチに見えても、他の人からみるとその人が、ケチでもなんでもないかもしれませんし、慎ましやかに見えるかもしれません。引き籠もりの子供は、学校や社会に係わっていないという意味で問題があるように見えます。しかし、父親、母親、周囲の人それぞれに感じ方は異なります。怠け者だと感じるか、その日常で見せる態度が不遜に見えてしまうのか、言うことを聞かないことに立腹するのかは、その子供をみる人のそれぞれが感じることなのです。

そして、その見せられている姿が、自分の改めなければならない部分なのです。人さまを見てケチに見えたとき、自分がケチなのです。その相手よりはケチではないかもしれませんが、自分の周囲のだれかよりもケチだということを自分が知っていて、自分を守るために人をケチだと責めることになるのです。相手が慎ましやかに見えたとすれば、自分が慎ましやかに見られていることにご自身でお気づきのはずです。人さまのケチな姿を見て、イヤな気分になったときには、自分のケチな部分を治さなければならないということなのです。

引き籠もりの子供を見て感じたこと、イヤな気分で怠け者だと感じてしまったら、じつは自分の怠け心を自分が見抜いてしまったということなのです。不遜な態度が気になったら、自分が他の人に見せている不遜な態度を改めなければならないのです。言うことを聞かない子にイヤな感じがしたのは、自分が人の言うことを聞かない者なのです。それを改めるように、引き籠もりの子供が見せてくれているのです。

人さまや子供を見てイヤだなあと感じる事柄は、自分自身は改めなければならないことを自分で気づいていることです。そのことを受け入れなければならないのです。それを相手を通じて学ぶことができるのです。

言葉には論理があって、感情が揺らぐ部分を探りやすいのです。ですから、相手の言うことを受け入れるように努めることがしやすいのです。まずは、聞く態度をすることです。相手がいろいろと自分に話しかけてもらいやすいように聞く態度を見せることです。それは自分自身を聞く体制にすることでもあるのです。膝を相手のほうに向けます。腕組みや足を組むと拒絶した姿に見えるので、腕や足を組まないようにします。手の甲を相手にみせているのは、自分を隠していることになるので、手のひらをみせるようにすることも良いことです。そして、同調することです。相手に合わせてしぐさをまねます。また、復唱したりすることで、相手とシンクロしていくのです。そうすると信頼ができます。

次に理解することです。相手の発する言葉を漏らさず聞き取ります。話そうとしている人は、思うところを話そうとしているので、聞くほうが理解できることを優先しているわけではありません。ですから、丹念にそれを組み上げて、相手が話そうとしていることを自分の中で整理して、理解していくのです。主語が抜けていたり、時間的な経過が前後していたりするわけですから、自分の中で組み上げなければならないのです。分かりにくいことがあったり、辻褄が合わない話に聞こえても、相手に問うてはいけません。相手の心に逆らうからです。合いの手を入れながら、しばらく聞くうちにその全体が見えてくるのです。そうすると、相手に対して、感情的なことに関係なく事実が見えてきます。

次に受け入れることです。これは、相手の言葉を理解しようとして聞くわけではありません。相手の言葉を、自分の感情でより好みするのではなく、全部そのままに受け入れるということです。相手をそのままに認めるということでもあります。

相手に対して、感情的に受け入れられない部分のない状態は、鏡の法則を適用すれば分かるように、自分がだれからも受け入れられている状態になっているということなのです。そのときに相手に自分と異なる部分が見えれば、それが相手の存在を認めた証左です。きちんと聞くことの先にある相手を受け入れることは、ある姿を持った自分が宇宙に受け入れられる、つまり本来の自分に立ち返らせてくれることになるのです。
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2016年02月04日

運をよくする方法

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平成28年2月1日の感謝祭でお話した内容を要約しました。

まもなく幸運祭ですので、それにちなみ、運をよくする方法をお話します。

宗教の場で、運をよくする方法を聞く機会はあまりないと思います。まじめに生きる方法をお伝えることが主眼になるからです。

性格心理学では、性格をビッグファイブと呼ぶ5つの特性で分類します。この5つの特性の内、3つが運の善し悪しに関係していることが知られています。ビッグファイブは、外向性、協調性、真摯性、情緒安定性、好奇性です。

宗教の場では、協調性や真摯性を説明することが多くあります。協調性は、温厚で親切かどうかです。真摯性は、几帳面で計責任感があるかどうかです。これらは、宗教に関係しやすい特性ですが、運の善し悪しと関係がありません。。

外向性、情緒安定性、好奇性は、運の善し悪しと関係しています。運がつくというのは、偶然が訪れるということです。運のついている人は、外向性について、前向きで社交的です。愛想がよく、人づきあいがよく、友人宅やパーティーによく行き、たくさんの人と会います。外向的で、おしゃべり、笑う回数が多く、相手に手のひらを見せ、自分をオープンにし、多くの友人に連絡を取り、また安定した関係を続けようとします。情緒安定性は、穏やかさや楽観的です。ですから、肩の力を抜いている、落ち着いていて、チャンスに気づきやすいのです。特定のものを選ばず、目の前のものを受けいれ、チャンスを探すのではなく、目の前のチャンスに気づきます。好奇性は、新しいもの好きで、創造的です。

運がついていない人は、その逆で、消極的で非社交的で、閉じこもりがちで、読書などを好み、心配性、神経質です。悲観的で、緊張や不安に弱く、気分が沈みがちで、条件をつけすぎる傾向にあり、また、現実的で視野が狭いのです。

情緒安定性は、現実的な方法で改善しにくいものです。しかし、瞑想で良い状況を作ることができます。よけいなことを考えすぎないようにすることで、気持ちが落ち着き、チャンスを逃さないようになるのです。

ですから、運をつけるには、人づきあいを大切にし、新しいものを見る、受けいれるように努め、瞑想などで落ち着くようにすると良いことが分かります。
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2014年01月14日

相手のそのままを気配で知る

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人さまと話していて、その言葉に心地よくなったり、不快な気分になることもあります。しかし、相手は、社会で、あるいは家族の中で精一杯にしているのです。彼のほとんどの部分は、あたりまえに人さまや家族の役に立ち、満足を与えているのです。ところが、その人に接したときに、その人の全体の百に一つか、あるいは万に一つが感情を揺さぶり、魅力的に見えたり、癇に障るのです。

だれもが周囲を正しく知ることはできません。自分の経験と感覚を通じて周囲を見るからです。人さまを、自分の経験と感覚の範疇で見ることは、自分の知る範囲でしかその人を見ていないことになります。

それではその相手をそのままに見ることはできないのでしょうか。できます。感情で相手をとらえないことです。さらに理屈でとらえないことです。つまり気配として、相手をとらえるのです。

多くの場合、相手に見えているのは、自分の感情が揺り動かされた部分です。相手の姿や行動や言動に自分が不愉快な気分になったとすれば、不愉快になっているのは自分自身で、それを相手だと勘違いしてしまいます。

そこで、感情を揺らがせないで相手を見ることができるとしましょう。しかし、相手を言語で理解しようと努めると、やはり誤ります。言語によって、枠組みを決めることができます。しかし、実際には枠組みがあって、相手がその中にあるのではなく、相手がそのままにあるのを、見ている人が、自分の枠組みの中に収めようとしているにすぎません。

言葉による枠を作らずに、気配として感じる相手が、ほんとうの相手の姿なのです。

写真 杖を突きながら歩く老婆 by いしだひでヲ
写真素材 足成  http://www.ashinari.com/
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