2020年08月07日

大人になって分かること---タイムマシンでどこに行くのか

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タイムマシンで過去や未来に行くというのは、想像力たくましい人類の発明だろう。飼っているが犬が30年前を見てきたよ、とか、樹でミーンミーンと鳴いている蝉が100年後を見にいきたいと思っていることはなさそうだ。彼らは、過去や未来に思いを馳せたりせず、今を精一杯に生きているように思える。

タイムマシンでの行き先は、過去や未来だ。私が子供のころ、タイムマシンで気になったのは、過去や未来のある時ではなく、どこに降り立つのかということだった。自分の思う「ここ」、あるいは「そこ」に、自分がそのままに降り立つことができるのかが問題になってしまった。3つの疑問が生じた。

一つは、今いる地球上のどこかから、未来の同じ場所に到達するということはどういうことか。今の自宅が100年後に工場だったら、工場に降り立つのか。その場所が隆起したり、土盛りをして、同じ位置が地中になっていたら、自分は、土の中に現れるのか。

2つ目は、地球は自転し、公転もしていて、太陽系全体が銀河系の中で移動している。銀河系も、同じ位置だと言えない。そうすると、あるとき「ここ」だと思ったそこは、100年後には宇宙空間のある場所だ。星などないところの可能性が高い。「ここ」に自分が100年後にあらわれるのは、宇宙空間に放り出されるということだ。それ以前に宇宙空間中のある位置は、特定できるのかという疑問もある。全体が推移している中では、ある位置は、そのままある位置だということにもなるのか。

3つ目は、時間を移動する自分は、何か。自分は、その肉体なのか。肉体の臓器は自分か。食事中の口の中の食べ物、手にした手帳、身につけた服装は、未来にあるのかどうか。肉体だけだと、裸で降り立たなければならない。他方で、降り立つ場所には、その直前まで、何かがあっただろう。そこに降り立つ自分とそこにあったものは、どのようにあるのか。そこにあったものが、交代するのか、消え去るのか。消え去るとすれば、どのように消えるのか。そこにあるものを自分が共有するというのか。そこに椅子があるならば、椅子と自分が合体したものとなるというのか。

タイムマシンは、子供に大きな問題を投げかけた。「いつ」を問うているように見えながら、「どこ」であり、自分が「なに」かを問うことになった。もちろん、大人になった自分が見返せば、見えてくることがある。「いつ」は「どこ」であって、自分は、思考しているもので、そこの全体を含んでいると。
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2019年01月29日

世界中の人たちに知ってほしい大切なこと

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この宇宙のすべてが愛の法則に依るただひとつのものです。それが真理です。

世界中の人たちが、それを感覚的に捕らえることができるようになるに違いありません。一人一人が愛に包まれ、だれもがすべてにつながっていることを実感することでしょう。人間の成長は、宇宙の推移の当然です。一人一人がより高次の気配を受取りながら、周囲に託していく流れによって宇宙のダイナミズムは成っているのです。
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2018年09月15日

ヨハネの福音書の成立

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新約聖書に出てくる使徒ヨハネは、若く、ハンサムにされることが多い。「イエスの愛しておられた弟子」という表現のためだろう。そして、イエスに関わる重要な場面でよくでてくる。教会でも指導的立場にあった。

彼の福音書は、イエスについて述べようとしている。その冒頭「はじめにことばがあった」を、神の発する言葉、あるいは言葉が神をあらしめるという解釈は無理がないかもしれない。しかし、イエスの愛弟子だと考えると、ヨハネの知っている「ことば」はロゴスに由来する法則や秩序を含んでいたはずだ。ミュトスが意味する空想に対比される理性を意味している。

しかし、そこには困難を伴う。一方で、ヨハネの黙示録の成立は、彼によるものではなく、後のヨハネ教団によるものだと考えられること。他方で、三位一体の成立によって神のことばであるイエスの本質がロゴスだとされることになった。それらの成立は、イエスやヨハネの没後で、その時期は重なるのではないか。

信仰の基礎は、「信じる」ことだ。一般的には、信仰の対象があるように見える。しかし、己が信じることが基礎だ。そこで、ロゴスのもつ論理が外れる。「ああ、そうだ」としか思いようのない感触が、信じることの核心だ。イエスも、たぶんヨハネも重々承知していたに違いない。かれらが知っていたことと、彼らが語ることは同じではない。

ヨハネは、信仰の対象としてのイエスを絶対にするためにロゴスを借りたのだ。彼の福音書の冒頭をロゴスからはじめたのは、神であるイエスに迫ろうとしたためだ。ことばを越えざるを得ないことを知っていて、なお論理を構築しようとしたのだ。
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2018年05月24日

「1+2+3+4+… =-1/12」を主張する近世のソフィスト

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「1+2+3+4+… =-1/12」だという人がいます。数学の得意な人です。ところが、「無限大まで加え続けて、右辺の数値になるわけがないよ」というのが普通の人です。

コーシーやオイラーの業績を踏まえ、あるいは、リーマンのゼータ関数を用いると、その等式が成り立つそうです。ところが、無限の数列を扱うにはコツというのか勘どころがあります。それを巧みにコントロールして、知らない人たちをけむに巻いている人がいます。近世版ソフィストです。古代ギリシアで「智が働くようにしてくれる人」「教えてくれる人」を意味するソフィストですが、詭弁に長けていたように当時から思われていたのです。

その式を眺めて、「それ、誤っている」と拒絶する人は、自分の枠組みをベースにしていますから、その枠組みに合致した詭弁に乗ってしまうのです。「ああ、あれだなあ。それ、おかしいよね」と思える人は、受けいれているので、その詭弁の部分が見えるのです。

この左辺の無限級数の和が、右辺のように決まるという説明は、特別なことなのです。ゼータ関数を用いて証明をするときに、条件がちらちらと見えています。それを子供にも分かるような数式を用いようとすると、それが抜け落ちるのです。


1+2+3+4+… =-1/12 
その一般的な証明は、次の通りです。

元の式の左辺を
A=1+2+3+4+5+6+……
とする。

次のような数列の和を用意する
B=1-2+3-4+5-6+……
C=1-1+1-1+1-1+……

AとBから
B-A=(1-2+3-4+5-6+……)-(1+2+3+4+5+6+……)
   =1-2+3-4+5-6+……-1-2-3-4-5-6-……
   =(1-1)+(-2-2)+(3-3)+(-4-4)+(5-5)+(-6-6)+……
   =-4-8-12-20-24-……
   =-4(1+2+3+4+5+6+……)
   =-4A
よって
B-A=-4A
B=-3A
A=-B/3

また、BとCから
C-B=(1-1+1-1+1-1+……)-(1-2+3-4+5-6+……)
   =1-1+1-1+1-1+……-1+2-3+4-5+6-……
   =(1-1)+(-1+2)+(1-3)+(-1+4)+(1-5)+(-1+6)+……
   =0+1-2+3-4+5-……
   =B
よって、
C-B=B
C=2B
B=C/2

そられから、
1-C=1-(1-1+1-1+1-1+……)
   =1-1+1-1+1-1+1-……
   =C
1-C=C
1=2C
C=1/2

A=-B/3=-C/6
より、
A=-1/12
となる。
よって 1+2+3+4+… =-1/12 

と説明されます。

その説明は、なかなかおもしろいと思います。巨大な数値になる元の数列を、意味があるものにする数列に変換しているのです。自然数が無限大になるまで、加え続けていた元の式では、無限大を超える無意味な数式でした。加算、減算を繰り返すことで、そこから抜け出したのです。しかし、右辺のようにある数値になるというのは、数式遊びのときだけで、イメージが貧困なのです。

この証明の数式を眺めていたときに、「……」の最後は「+(∞-2)+(∞-1)+∞」「+(∞-2)-(∞-1)+∞」「-(∞-2)+(∞-1)-∞」です。ということは、ある条件下でしか、特定の数値にはならないのではないかと想像ができたのです。ゼータ関数を用いて証明するときに必要だった条件があったはずです。その拡張の仕方を誤ると、無意味な式になることが分かるのです。
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2016年12月20日

ほんとうの自分に向かって一歩進む

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私たちの欲求はとどまるところを知りません。お金や地位などは、がんばって思うだけ得たり、あるいは無理なことを知って諦めることになります。着飾ったり、美しい自分を誇示したり、あるいは強靱な肉体を手にしても、健康に生きているだけでありがたいことに気づくようになります。親兄弟や伴侶に感謝し、子や孫を慈しんでいても、おのれが老いさらばえ、その念ばかりで、何もできるわけでもないと気づき、場合によっては、そうした肉親のことが分からなくなります。いずれも不純な、あるいはなんとわがままだったことかと気づくわけです。

最後まで気づかない人もいますが、あることに気づく人もいます。20歳ごろに、あるいは人生の終焉の間近にでも、目標が見えているわけではないけれど、日々を充実させ、自分の成長につなげ、そうすることで心が安らぐことに気づきます。心が躍動しているにもかかわらず、感情が揺らぐわけでもないという、人間の不出来さを、ただ反省するのではなく、本来の人間性を、彼方に見据えて歩みはじめるのです。この謙虚な態度が、実に遠大で、それにどうにも抗えない自分が、ただ自分に対峙して確信を得るのです。一歩先は分かっているように思いながらも、二歩先は闇の道をまっすぐに歩み始めるのです。ほんとうの自分を目の前にして、歩みだすしかないのです。
posted by ほうとく at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 真理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする