2018年09月15日

ヨハネの福音書の成立

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新約聖書に出てくる使徒ヨハネは、若く、ハンサムにされることが多い。「イエスの愛しておられた弟子」という表現のためだろう。そして、イエスに関わる重要な場面でよくでてくる。教会でも指導的立場にあった。

彼の福音書は、イエスについて述べようとしている。その冒頭「はじめにことばがあった」を、神の発する言葉、あるいは言葉が神をあらしめるという解釈は無理がないかもしれない。しかし、イエスの愛弟子だと考えると、ヨハネの知っている「ことば」はロゴスに由来する法則や秩序を含んでいたはずだ。ミュトスが意味する空想に対比される理性を意味している。

しかし、そこには困難を伴う。一方で、ヨハネの黙示録の成立は、彼によるものではなく、後のヨハネ教団によるものだと考えられること。他方で、三位一体の成立によって神のことばであるイエスの本質がロゴスだとされることになった。それらの成立は、イエスやヨハネの没後で、その時期は重なるのではないか。

信仰の基礎は、「信じる」ことだ。一般的には、信仰の対象があるように見える。しかし、己が信じることが基礎だ。そこで、ロゴスのもつ論理が外れる。「ああ、そうだ」としか思いようのない感触が、信じることの核心だ。イエスも、たぶんヨハネも重々承知していたに違いない。かれらが知っていたことと、彼らが語ることは同じではない。

ヨハネは、信仰の対象としてのイエスを絶対にするためにロゴスを借りたのだ。彼の福音書の冒頭をロゴスからはじめたのは、神であるイエスに迫ろうとしたためだ。ことばを越えざるを得ないことを知っていて、なお論理を構築しようとしたのだ。
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2018年05月24日

「1+2+3+4+… =-1/12」を主張する近世のソフィスト

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「1+2+3+4+… =-1/12」だという人がいます。数学の得意な人です。ところが、「無限大まで加え続けて、右辺の数値になるわけがないよ」というのが普通の人です。

コーシーやオイラーの業績を踏まえ、あるいは、リーマンのゼータ関数を用いると、その等式が成り立つそうです。ところが、無限の数列を扱うにはコツというのか勘どころがあります。それを巧みにコントロールして、知らない人たちをけむに巻いている人がいます。近世版ソフィストです。古代ギリシアで「智が働くようにしてくれる人」「教えてくれる人」を意味するソフィストですが、詭弁に長けていたように当時から思われていたのです。

その式を眺めて、「それ、誤っている」と拒絶する人は、自分の枠組みをベースにしていますから、その枠組みに合致した詭弁に乗ってしまうのです。「ああ、あれだなあ。それ、おかしいよね」と思える人は、受けいれているので、その詭弁の部分が見えるのです。

この左辺の無限級数の和が、右辺のように決まるという説明は、特別なことなのです。ゼータ関数を用いて証明をするときに、条件がちらちらと見えています。それを子供にも分かるような数式を用いようとすると、それが抜け落ちるのです。


1+2+3+4+… =-1/12 
その一般的な証明は、次の通りです。

元の式の左辺を
A=1+2+3+4+5+6+……
とする。

次のような数列の和を用意する
B=1-2+3-4+5-6+……
C=1-1+1-1+1-1+……

AとBから
B-A=(1-2+3-4+5-6+……)-(1+2+3+4+5+6+……)
   =1-2+3-4+5-6+……-1-2-3-4-5-6-……
   =(1-1)+(-2-2)+(3-3)+(-4-4)+(5-5)+(-6-6)+……
   =-4-8-12-20-24-……
   =-4(1+2+3+4+5+6+……)
   =-4A
よって
B-A=-4A
B=-3A
A=-B/3

また、BとCから
C-B=(1-1+1-1+1-1+……)-(1-2+3-4+5-6+……)
   =1-1+1-1+1-1+……-1+2-3+4-5+6-……
   =(1-1)+(-1+2)+(1-3)+(-1+4)+(1-5)+(-1+6)+……
   =0+1-2+3-4+5-……
   =B
よって、
C-B=B
C=2B
B=C/2

そられから、
1-C=1-(1-1+1-1+1-1+……)
   =1-1+1-1+1-1+1-……
   =C
1-C=C
1=2C
C=1/2

A=-B/3=-C/6
より、
A=-1/12
となる。
よって 1+2+3+4+… =-1/12 

と説明されます。

その説明は、なかなかおもしろいと思います。巨大な数値になる元の数列を、意味があるものにする数列に変換しているのです。自然数が無限大になるまで、加え続けていた元の式では、無限大を超える無意味な数式でした。加算、減算を繰り返すことで、そこから抜け出したのです。しかし、右辺のようにある数値になるというのは、数式遊びのときだけで、イメージが貧困なのです。

この証明の数式を眺めていたときに、「……」の最後は「+(∞-2)+(∞-1)+∞」「+(∞-2)-(∞-1)+∞」「-(∞-2)+(∞-1)-∞」です。ということは、ある条件下でしか、特定の数値にはならないのではないかと想像ができたのです。ゼータ関数を用いて証明するときに必要だった条件があったはずです。その拡張の仕方を誤ると、無意味な式になることが分かるのです。
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2016年12月20日

ほんとうの自分に向かって一歩進む

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私たちの欲求はとどまるところを知りません。お金や地位などは、がんばって思うだけ得たり、あるいは無理なことを知って諦めることになります。着飾ったり、美しい自分を誇示したり、あるいは強靱な肉体を手にしても、健康に生きているだけでありがたいことに気づくようになります。親兄弟や伴侶に感謝し、子や孫を慈しんでいても、おのれが老いさらばえ、その念ばかりで、何もできるわけでもないと気づき、場合によっては、そうした肉親のことが分からなくなります。いずれも不純な、あるいはなんとわがままだったことかと気づくわけです。

最後まで気づかない人もいますが、あることに気づく人もいます。20歳ごろに、あるいは人生の終焉の間近にでも、目標が見えているわけではないけれど、日々を充実させ、自分の成長につなげ、そうすることで心が安らぐことに気づきます。心が躍動しているにもかかわらず、感情が揺らぐわけでもないという、人間の不出来さを、ただ反省するのではなく、本来の人間性を、彼方に見据えて歩みはじめるのです。この謙虚な態度が、実に遠大で、それにどうにも抗えない自分が、ただ自分に対峙して確信を得るのです。一歩先は分かっているように思いながらも、二歩先は闇の道をまっすぐに歩み始めるのです。ほんとうの自分を目の前にして、歩みだすしかないのです。
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2014年08月21日

思考停止から悟りへ

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悟るというのは、ある何かを知ることだ。だが、その簡単なことがなかなか難しい。瞑想は悟るためのすばらしい方法だが、瞑想というツールにとらわれ、悟りに至りにくくなる。そこで、思考停止を用いて悟りに至る道程を示した。

瞑想と言えば、たいそうなことだと思う人は多い。寺で座禅を組む、それは一時間、二時間、あるいはそれ以上、脚(あし)の痛みをこらえながら、何も思わないというできそうにもないことへのチャレンジだと思う人が少なからずいる。

その瞑想への期待を抱えて、悟ることは無理だ。瞑想が目的ではない。悟ることだ。肉体をもって現実に生きる者たちが悟るには、瞑想をしようと試みたときに、それは、己の領域の外に瞑想をすることをイメージし、あるいは瞑想というある特別な状態を己に課そうと努める。そのために悟りを開く機会を失わせている。

そこで、思考停止を悟るために用いる。まず、日常の己の中の雑念を払う。その簡単な方法は、心の中のおしゃべりを止めることだ。椅子に座ってリラックスした状態で? そうであってもかまわないが、通勤の途中でも、食事中でもかまわないのだ。

そのとき、思考を停止するのだ。私たちは、ふだんから、つい何か思い、考えようとする。そのときにそれ以上に思い、考えることを意図的に止めるのだ。

そうすると五感がより強く働き始める。視線の揺らぎは小さくなり、周辺視野も含めて、その全体が見えるようになる。視線を固定することが目的ではない。思考停止によって、およそ視線が中央のやや下方に落ち着いてしまうということにすぎない。頭上からも、右手をまっすぐ右にのばしたその先も、左手を左にのばしたその先も、つま先までも、前方を見ているだけで、その周辺の全部をとらえることができる。周辺視野は、明瞭な像を結ばないが、見えるということだ。

手に持つバッグの重みばかりか、手の甲を空気の流れるさままでも感じることになるだろう。大気の香りも香ってくる。口の中で味や舌触りを感じるかもしれない。喧騒の中で見渡すかぎりの人さまの、あるいは視野には見えていない人たちのざわめきや街に響く鼓動のような音も一斉に聞こえてくることだろう。

一見すると、自分の五感の感度が上がったような状況になる。感じているその全体が己の周囲に満ち満ちていたことに気づく。そして、それを自らが全面的に受け入れ始めたことに気づく。同時に第六感と呼ぶ直感を呼び起こさせる。

このとき、満ち足りた自分に気づくことだろう。その先に悟りがあり、かなり近づいてきた。それでは、いつ悟るのか。もし、時間的経過があるとすれば、その後である。「あぁ、悟ったかもしれない」と気づくのは、答えが、自分の領域のすぐそばにあることに気づいたときだ。その答えというのは、問いがあって、その答えが導かれるのではない。悟りでは、必要なメッセージが、回答のような姿で自分の領域のすぐそばに用意され、その回答を得るような質問を自分が発し、そこにあった回答に気づくという感じである。それが悟りである。

私たちの成長は、己の領域が拡大することに他ならない。己の外側にある回答を自らの内に取り込み続ける作業なのだ。それを繰り返しながら、成長するのだ。そして、それは、質問と回答の内容が、より純化し、あるいはより抽象的になっていく。周囲を取り込んでいく作業によって成長することは、己の規範が、より高次の秩序に基づくことを意味している。そうして、私たちは、より高次の秩序に基づく理解をすることになる。その理解が、私たちの日常の生活の規範になり、思考、そして、振る舞いが、よりまったきものとなるのだ。

写真
著作者: j0sh
GATAGフリー画像・写真素材集 4.0
http://free-photos.gatag.net/2014/01/10/030000.html
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2013年12月07日

「本物とは何ですか」という質問を受けました

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「本物とは何ですか」という質問がありましたので、それに答えました。偽物ではないものです。あなたの宝物です。大英博物館にあるわけではありません。以上3点セットで回答としました。

偽物は本物には成り得ません。当事者がありがたく扱う、あるいは慈しみをもって扱うものです。本物をぞんざいに扱うことができるでしょうか。本物の持つ価値を認めない、つまり本物であることを認めないことから生じる振舞いです。

彼方にある大英博物館の所蔵物は、偽物ではないと言う意味での本物かもしれません。しかし、偽物を所蔵していないと言う確証はありません。ましてや当事者の真贋の識別が及ぶところではありません。

本物だと己が確信できるものだけが本物です。感性が低い、あるいは知識がないために、本物かどうかを自分で識別することができなければ、他者が偽っても分かりません。世に知られる博物館や美術館の所蔵物を本物だと信じることと、本物かどうかが分かることは別なのです。

自分の身近になければ、本物かどうかを知ることは困難です。そして本物であれば、いとおしく大事にすることでしょう。日常的に使うものであっても、ふだん目に触れるものでなくても。

写真:リンゴ盛り by ユウ屋
写真素材-フォトライブラリー http://www.photolibrary.jp/
posted by ほうとく at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 真理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする