
新約聖書に出てくる使徒ヨハネは、若く、ハンサムにされることが多い。「イエスの愛しておられた弟子」という表現のためだろう。そして、イエスに関わる重要な場面でよくでてくる。教会でも指導的立場にあった。
彼の福音書は、イエスについて述べようとしている。その冒頭「はじめにことばがあった」を、神の発する言葉、あるいは言葉が神をあらしめるという解釈は無理がないかもしれない。しかし、イエスの愛弟子だと考えると、ヨハネの知っている「ことば」はロゴスに由来する法則や秩序を含んでいたはずだ。ミュトスが意味する空想に対比される理性を意味している。
しかし、そこには困難を伴う。一方で、ヨハネの黙示録の成立は、彼によるものではなく、後のヨハネ教団によるものだと考えられること。他方で、三位一体の成立によって神のことばであるイエスの本質がロゴスだとされることになった。それらの成立は、イエスやヨハネの没後で、その時期は重なるのではないか。
信仰の基礎は、「信じる」ことだ。一般的には、信仰の対象があるように見える。しかし、己が信じることが基礎だ。そこで、ロゴスのもつ論理が外れる。「ああ、そうだ」としか思いようのない感触が、信じることの核心だ。イエスも、たぶんヨハネも重々承知していたに違いない。かれらが知っていたことと、彼らが語ることは同じではない。
ヨハネは、信仰の対象としてのイエスを絶対にするためにロゴスを借りたのだ。彼の福音書の冒頭をロゴスからはじめたのは、神であるイエスに迫ろうとしたためだ。ことばを越えざるを得ないことを知っていて、なお論理を構築しようとしたのだ。