2015年12月06日

祈りはどこに届くのか

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12月の感謝祭で「祈り続ける」をお話ししました。その一部分です。

世界中のどこでも、いつの時代でも、人は祈ってきました。その相手は、神と呼ばれる人間を超えるものです。私たちの日常について思うところがあるから祈るのです。感謝かもしれませんし、悲嘆にくれた思いや怒りを吐露しているのかもしれません。かなえたい事柄の成就を願ってきたのかもしれません。

その祈りは、どなたが聞き届けているのでしょうか。宇宙創世のただお一人の方かもしれませんし、八百万の神々のどなたかかもしれません。それは祈る者がどの神に通じているかということなのです。

神の意のままに過ごしている方の祈りは、いつでもその神に通じることが想像できます。日常を神の意図に無関係に過ごしながら、ときどき祈っても、その祈りは通りにくいことでしょう。神さまが意地悪をしているのではなく、日常の波動圏が神々のそれと異なるために通じないというにすぎません。

神さまへの祈りを送り届けいたならば、日常的に神様の空気を帯びながら過ごすことです。穢れなき自分の思いは、自分の本質に似通った神が応えるのです。本来の自分を覆い隠すエゴを周囲に巻き散らかす方が祈っても、低い波動圏の何者かが反応するだろうということが分かります。

霊界のだれか、より偉大な神と呼ばれる方、あるいは、宇宙神と呼ぶ太陽系外の神、そうした方々の居場所が異なり、波動圏が異なるわけですから、祈るその先が異なることになるのです。

部屋の隅でくつろいでいるネコをそばに連れてきて、「ぼくは、仕事でつまずいてしまって、どうにもならないんだ。どうしたらいいのだろう。助けてくれないかなあ。」と言わないと思います。もし、そう言うのならば、その前に「お前には、分からないだろうけれど、聞いてほしいんだよ」と加えていることでしょう。

祈りを活かす一方は、ほんとうの自分をお伝えするのにふさわしい方に聞き届けていただくことです。もう一方は、解決を図る糸口に自分が気づくことです。

私たちが祈るときには、できることならしっかり理解してくださる方に、あるいは立派な方に聞き届けてもらいたいと思うわけです。自分の全身全霊で語ろうというその思いのありかは、どこでしょうか。自分のもっとも繊細で核心に及ぶ部位は、自分のもっとも奥底です。自分の奥底のそのままを祈りに託すには、頭の中でぐるぐる思いめぐらせたり、自分の外の何者かを想像することはできません。自分の奥底に潜もうとしたときに、どこかに触れた感じを受けるのです。自分のより深いところ向かうほどに、触れることのできるもっとも波動圏の高いところにカツッと当たるのです。それがそのままに届けられなければならないのです。ですから、いつでも自分のより深いところに行き着けるように心乱さないように整えておかなければなりません。

一方で、日常は理不尽に見えます。しかし、それを解く糸口は、いつも目の前にあります。それが見えるか見えないかは、それを自分が見るか見ないかだけの差です。糸口が見えないのは、自分のエゴなどに左右されて、見ないようにしているだけかもしれません。そこで、気づいても良いはずの解決の糸口を、日常のいつでも、気づけるようにすることが肝要だと分かります。自分のエゴに左右されることのない状態にしておくことです。そうしたときに表層的には理不尽に見える日常に深遠な解決の回答が用意されていることに気づくのです。

祈りが自分を整えます。そうすると、自分の思うところがどこかに及び、どこからか自分に回答が用意されるのです。そのどこからかが、宇宙神界のどこかかもしれませんし、太陽系神界のどこかかもしれませんし、あるいは霊界のどこかかもしれません。私たちは、そのどこかが、より高い波動圏にあり、よりほんとうらしいところであるように、と思っていることでしょう。ですから、自分を整え、同調するようにしておくのです。祈りの時間だけそうした状況に整えれば、その時間の影響を受ける範囲に限られます。日常をそうした状況に整えておけば、日常がその影響を受けることになるのです。

写真、「太陽からの愛・背景」by ナンバー
posted by ほうとく at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 神霊的世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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