2013年10月17日

座禅や瞑想での肉体の痛みに耐える

私たちは、ほんとうのことが知りたい、世の中で正しく生きたいと切望しています。そのために、多くの人が瞑想や座禅をします。そこで何かを知るのです。

そうした行(ぎょう)を、心地よいものだと思われる方は少なくないはずです。確かに真我一体の心地よさは何にも代えがたいものです。なさっている方もそう喧伝することでしょう。

ところが、実際には、座っているだけで、足腰が痛む、肩や腕が痛む、その肉体の問題を話題から外してすらも、雑念が湧きつづけるなど、望んでいる状況にほど遠いはずです。

私たちがこの地上で肉体を持って暮らしています。そこで知りうるほんとうのことらしきものは、かすかな気配として感じるのです。少しでも確からしいことを知りたいという熱情が、自らを誘(いざな)います。ところが、それが日常より高次にあるために、それを見いだすだけの忍耐を試す門番に遮られるのです。ですから気配で感じようとするだけであっても、正当にその忍耐力の所持を証(あか)す形式が、痛みを伴う座禅であったりするのです
posted by ほうとく at 17:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ・幸福 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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