2013年07月30日

Indonesia penuh dengan "love"

Ada "love (suku )" dalam bahasa Indonesia. Namun, tidak ada "hate" di dalamnya. Oleh karena itu, "hate" dinyatakan "Tidak suku".

Orang dewasa berteriak kepada anak yang sedang bermain di tangga. "Jangan melompat."

Kemudian, melompat anak. Alasan dia adalah bahwa hal itu dicitrakan untuk "melompat". Orang dewasa hanya memiliki mengatakan kepada anak, "Berada di sana" dan "Pergi berjalan".

"love (suku)" dan "hate (tidak suku )" dalam bahasa Indonesia mengingatkan orang "love (suku ) ".

Bahasa Indonesia indah. Indonesia penuh dengan "love".
ラベル:love suku indonesia
posted by ほうとく at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Indonesia is filled with "love"

There is "Love (suku)" in Indonesian language. However, there is no "Hate" in it. Therefore, "Hate" is expressed "Tidak suku".

The adult shouts to the child who is playing on the stairs. "Don't jump."

Then, the child jumps. The reason for he is that it is imaged to "jump". The adult only has to say to the child, "Be there" and "Get off walking".

"Love(suku)" and "Hate(tidak suku)" in Indonesian language remind people of love (suku) ".

Indonesian language is wonderful. Indonesia is filled with "love".
posted by ほうとく at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

インドネシア語には「嫌い」がないので、いつでも「好き」

インドネシア語には「好き」suku(スカ)はある。だが、「嫌い」がない。「嫌い」を表現するには「好きではない」tidak suku(ティダッ スカ)と表現する。

階段で遊んでいる子供に「跳んじゃダメ」といったとたんに子供は跳ぶ。跳ぶことをイメージするからだ。「そこにいてね」「歩いて降りてきなさい」と表現すればいいのですが。

インドネシア語を使っている方々は、好きでも嫌いでも、その言葉を聞いた時にイメージするのは、suku「好き」だ。インドネシア語はすばらしい言葉だ。
posted by ほうとく at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月16日

気温に由来する体調不良のほんとうの原因とその解決

夏に体調が何となくよくないという相談は少なくありません。私の観るところ、暑くて、身体がもたないというより、冷房や冷たいもので、調子を悪くしている方が多いのです。

ですから、暑い夏のことですが、暖房にしてもらって、たちまち快復する方もおられます。

決してお若い方特有ではなく、意外にもお年を召された方でも、必要以上に冷房をきつくしていらっしゃる、あるいは冷たいものを口にされていることが多いのです。

ですから、「暖かくしてくださいね、お手許に飲み物を置いて水分を補ってくださいね」とお伝えします。言葉では簡単ですが、通じにくいので、説明する部分は異なりますが、お相手によって説明を補います。

多くの方は冷房で、涼しくなって心地よくなろうとします。それは、心地よい温度を求める依存の状態で、自我に基づいています。夏は暑いものです。どなたもご存じです。ですから、涼しくすることを正当化できるのです。ほんとうは、じっとしていて、「暖かい」と気づく程度でいいのです。そこで天の御下(みもと)の私たちの本領が発揮できるのです。同じく冬のエアコンは、「涼しい」と気づく程度でいいのです。

飲み物を手元に置いていただくのは、「飲まなければならない」という意識を外していただくためです。その思いの故に、自ら邪霊を呼び込みます。手元に置けば、「飲まなければならない」と意識しなくても、喉が渇けば、すぐに気楽にお飲みになれます。いつでも飲めるのですから、がぶがぶ大量に飲む必要もありません。身体の求めている分だけをそのときどきで気楽に飲むことができるのです。その方を優しく見守る神さま、あるいは仏さまがいらっしゃるとしたら、「いつでも必要な分を補ったらいいのよ」とおっしゃっているに違いないのです。そのままに振る舞うのです。

保温性のある魔法瓶のような物ではなく、ペットボトルのお茶などをお飲みになっている方が多いようです。それを手元においていただくと、それは室温になります。それがおいしく感じるかどうかを別にすれば、飲みやすいはずです。口に、あるいは身体に優しいのです。それがその方を守るのです。冷たさやがぶがぶ飲み干す刺激的な快感を欲すれば、それに依存し、いずれ身体を傷めます。

夏のあたりまえに、私たちがあたりまえに対処するというだけで、問題は解決するのです。
posted by ほうとく at 11:12| Comment(2) | TrackBack(0) | ・健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月12日

「行者の言葉(無料のよろず相談)」での質問。メルマガの「 『絶対』はありそうで、どこにもありません。うつろうことや、あるように見えることばかりが、ほんとうのことです。」とはどういうことですか。

「行者の言葉」を月に3度、催しています。それは無料のよろず相談です。日常的なご相談が多いのですが、ときにけっこう難しい事柄もあります。

日刊メルマガ「 少し気になる『明日はどんな日?』今日より幸せになりたいから(無料)」に掲載したことについてのご質問です。

『絶対』はありそうで、どこにもありません。うつろうことや、あるように見えることばかりが、ほんとうのことです。

とはどういうことですか。私の書いたことですから私に聞くのが一番確かです。しかし、書いたとおりなので、私には言うことがあまりないのです。

その前日、翌日も書き出しておきましょう。

(前日)イヤな仕事から離れる方法は、その仕事に一生懸命に取り組むことです。逃げ出せば、その先で同じ状況に陥ります。

(翌日)相手を手伝えば、あなたは幸せになります。相手に手伝ってほしいと願うと、あなたは不幸になります。

というように、いつも、難しいことを書いているわけではありません。

その日の質問「 『絶対』はありそうで、どこにもありません。うつろうことや、あるように見えることばかりが、ほんとうのことです。」の回答は、「そのままです。書いてあるとおりのことです。」ではお話にならないので、説明しました。そのとき、冷茶を飲み干した手元のガラスの器が茶托に乗って机に置いてあります。それを手に取って、説明を始めました。

それを見て、「ある」と思っています。触って、匂いを嗅いで、その器があると思っています。でも正しくは、そうした感覚を通じて、器から感じる視覚や、触覚を感じているのであって、その物がそこにあるという事実そのものではないのです。

でも、私たちは、その器についての知識があります。その器の由来、ガラスという成分、それがもたらす私たちの一般的な感覚、あるいはそのメーカーのことや製造方法を知っているかもしれません。その知識が、私たちの感覚を確からしく支援をします。存否そのものではありませんが、知識が感じることを裏付けているのです。そして、知識は、その人によって異なるのです。そのことによって、絶対ではないけれど、共通にそのものがあるらしいことを感覚的に確かめられることを説明したのです。

その物をどう感じて、知識がその物をどう捕らえるかは、ある人にとっても、一目見た時から、触れて、嗅いでいくにつれて、変化するでしょうし、思い出す知識も変化するでしょう。同じ物であっても、子どもの時と大人になってからのように時によって異なるでしょうし、人さまによっても異なるでしょう。

絶対の根源は、目の前にあるそれ(というのはその手元にあったガラスの器と思うものです。言葉では、その物ではなく、言葉に移し替たそのものにしかならなくなります)の有り様ではなく存否そのものです。ところがそれすらも確かめる方法はないのです。経験に照らして、だれもが認めるであろうことは知っているので、その知識によって推定して、絶対にある「だろう」と考えるわけです。そこで、絶対ではないことが確実になるのです。存在は、他に依存して推定しているのに過ぎないのです。

しかし、知識によって、その時々で、その物の感覚を確からしくするのです。

ある一瞬の存否は、考察したように、いかようにも知りようはありません。もしその物があるとすれば、そして、もしないとしてすらも、知識や感性がその物の姿を捕らえます。それは確定的ではありません。私たちの感じや知るところによってそれは異なり、あるいは、ある瞬間から、別の瞬間に変化するのです。その変化は、その人の中では確かなのです。また、自分の知識や経験に基づいて手元で感じ入っているそのものの有り様も確かなのです。つまり、絶対の根源、存否すらも誰にも確かめられないけれど、誰であっても、感じ入ることの変化を確実に知ることができ、また、知識を前提に、より確かにあるだろうことを知ることができるのです。

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posted by ほうとく at 12:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 真理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする